メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

羊に入り込まれた男

2013年の12月17日、AKP政権閣僚の親族らが不正の疑いで拘束される。エルドアン首相(当時)は、この事件を、フェトフッラー・ギュレン教団のメンバーである検察官や警察幹部によって企てられた「政権打倒を目的とするクーデター」だと主張して、徹底抗戦の構えを取った。
そして、教団のあらゆる策謀にも拘わらず、最終的には11月の再選挙で勝利を得て、この「クーデター」を何とか退けたようである。
昨日(12月19日)のラディカル紙のコラムで、オラル・チャルシュラル氏は、「12月17日クーデター」と題して2年前の事件を振り返りながら、最後にこう記している。
「・・・『12月17日クーデター』を防ぐことはできた。しかし、政治の品格、社会の心理、国家のバランスに、大きな傷をつけられてしまった」
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フェトフッラー・ギュレン師は、70年代の中頃からイズミルを拠点に宗教活動で頭角を現す。90年代に入ると、ギュレン師の築いた教団は、傘下にザマン紙等の報道機関を従えて、トルコで最も強力なイスラム教団の一つと言われるまでになった。
その後、教団は、日本を始め世界各国にトルコ語の教室などを開設して、活動域を世界に広げた。ギュレン師は99年からアメリカのペンシルバニア州に滞在している。
教団の急成長には、当初、共産主義に対する防波堤として体制から秘かな支持を受け、90年代以降は、「穏健なイスラム」を標榜して、欧米からも支援を得られたことが大きかったようである。
断固反米だった故エルバカン師の率いるイスラム主義運動「ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)」とは反目し合っていたと言われているが、エルバカン師と袂を分かったエルドアン氏らがAKPを結成すると、最大の支援者となり、2002年の政権獲得に大きく貢献したとされている。
政権獲得後もAKPと教団の蜜月は続く。政権に就いたAKPは、軍部や司法と良好な関係がなく、官僚からも全面的な協力が得られなかったため、司法や警察を始めとする官僚機構の中に入り込んでいた教団のメンバーを取り立てて、その協力に頼らざるを得なかったらしい。
特に、2010年9月の憲法改正国民投票では、準備段階で教団のメンバーが目覚ましい働きを見せたという。
2014年3月、“A HABER”の番組で、ラシム・オザン・キュタヒヤルという若いジャーナリストの質問に答えたエルドアン首相(当時)は、彼らの熱心な働きを肯定的に評価していたと述べている。
しかし、国民投票を乗り切ると、教団は司法関係者の任命に影響を及ぼすようになって、エルドアン首相は不快感を抱き始めたものの、まだその時点では、彼らを信用していたそうである。
キュタヒヤル氏の「まだ目覚めていなかったか?」という問いかけに、エルドアン首相は「我々を騙していたんだ。我々がいつ目覚めたかと言えば、それは国家情報局に対する事件だった・・・」と答えている。2012年の2月、国家情報局のハーカン・フィダン長官がオスロでPKKと接触していた容疑で、検察から呼び出された事件だ。
キュタヒヤル氏によれば、国民投票の後から、教団は司法を牛耳るまでになり、いよいよ政権を背後で操る“後見役”システムの構築に動き始める。
その頃、キュタヒヤル氏は、教団の下の方のメンバーが、「フェトフッラー・ギュレン師は、誰が来ようと変わらない秩序を望んでいる」と語るのを聞いて驚いたという。
つまり、政権党は選挙で入れ替わるが、“後見役”システムは不動であり、これが国家の主体となる。その為に、フェトフッラー・ギュレン師は自分が育てた教団のメンバーを司法や警察を始めとする官僚機構へ送り込み、報道機関を使って世論を支配しようとした・・・。
エルバカン師は、政党を作り、信奉者を増やして選挙に勝とうとしたので、草の根運動を展開したけれど、フェトフッラー・ギュレン師は、そんなちまちました運動には興味がなかったということかもしれない。
こういったフェトフッラー・ギュレン師に纏わる様々な説を聞いていると、なんだか、村上春樹の「羊をめぐる冒険」に出て来る、あの羊に入り込まれた男を思い出してしまう。
報道機関を使って世論を支配し、政府を背後から操る・・・。殆ど変わらない構想であるような気がする。羊というのもトルコを象徴しているようで凄い。村上春樹氏は、教団の出現とその後の展開を予見していたのだろうか?