メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

エルドアン大統領とギュレン教団

 エルドアン大統領が、この数年来、進めて来たシリア対策は、結局、失敗に終わったけれど、行き詰ったと見るや、大胆な転換を図れる柔軟性は、支持派以外の識者からも評価されている。
こういった柔軟性というか、現実的な対応は、「クルド和平プロセスの凍結」を決断した時にも見られた。「クルド和平プロセス」は、エルドアン氏がそれこそ心血を注いだ作品であり、中止は断腸の思いだったに違いないが、決断を下した後の言動には、微塵の揺らぎも見られなかった。
ギュレン教団との決別とその後の闘いは、もともとこの教団を懐疑的に見ていたようだから、それほど困難でもなかったかもしれないが、やはり全くぶれることなく、断固とした態度を貫いている。
2014年の3月、エルドアン首相(当時)は、「ギュレン教団の暗部にいつ気が付いたのか?」というジャーナリストの質問に、2012年の2月、国家情報局のハーカン・フィダン長官がオスロでPKKと接触していた容疑で、ギュレン教団メンバーの検察官から呼び出された時だと答えている。
しかし、私がAKPで党員活動している友人から、2013年の7月頃に聞いた話では、2011年6月の国政選挙の段階から、既にエルドアン首相とギュレン教団の確執は始まっていたらしい。
この選挙で、教団は相当数のメンバーをAKP立候補者のリストへ送り込んでいたものの、その多くがエルドアン首相により却下されてしまったそうだ。リストが首相へ上がるまでは、順調に承認を受けていたため、教団は、怒りの矛先を首相に向けたという。
2013年の12月、教団メンバーの検察官らが、所謂「司法クーデター」を仕掛けた後も、暫くの間、教団のターゲットはAKPというより、エルドアン首相個人に絞られていたようである。教団は「エルドアン抜きのAKP」を画策していたらしい。
それどころか、先日、ニュース専門局の番組で、ある識者が語った説によれば、2002年にAKP政権が発足した時点で、既に教団は「エルドアン抜きのAKP」を構想していた。これを妨げるために、CHPのデニズ・バイカル党首(当時)は、エルドアン氏が被選挙権を得られるように取り計らったと言うのである。
これが何処まで本当なのか解らないけれど、教団の人たちの間で、当初よりエルドアン氏の評判が良くなかったのは確かだと思う。

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