メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ人気質/バランスと調和

 2004年12月、ラディカル紙でインタビューに答えたムラット・チザクチャ教授は、オスマン帝国ビザンチン帝国の継続であると主張しながら、以下の例を引き合いに出している。
「もしも、コンスタンティノープルが征服されていなければ、皇帝コンスタンティン11世の後を彼の甥にあたる人物が継ぐことになっていたが、その人物は、征服から17年後に、オスマン帝国海軍の司令官メスィヒ将軍として歴史の舞台に登場する。」
チザクチャ教授の主張には、ちょっと無理があるようにも思えるが、この話は別の観点から見ても非常に興味深い。
メスィヒ将軍は、ウィキペディアでも「コンスタンティン11世の甥」と記されているから、これはまず史実と見て間違いなさそうだ。ウィキペディアによれば、メスィヒ将軍はその後、オスマン帝国で大宰相の地位にまで上り詰めているらしい。
コンスタンティノポリの陥落は、欧米人にとって余りにも悲劇的な歴史であり、その為、オスマン帝国の残虐性ばかりが強調されているけれど、コンスタンティン11世の親族は皆殺しどころか、その後も一定の身分を保っていたようである。
大袈裟かもしれないが、私はこれに、バランスと調和を重んじ、極端なことを好まない“トルコ人気質”の源流を見る気がする。
それから、500年余りの歳月が過ぎ、オスマン帝国が終焉を迎え、共和国革命によってトルコ共和国が樹立した際にも、こういった気質は遺憾なく発揮されていたように思う。
オスマン帝国の解体・占領を目論んだ西欧列強との戦いでは、多くの血が流されたものの、オスマン帝国から共和国への移行は、ほぼ無血革命と言えるものだった。
皇帝の一族は、国外退去を求められただけである。ニコライ2世の一家を皆殺しにしてしまったロシア革命とは比較にならない。
2004年11月のラディカル紙から「亡命したオスマン朝皇子の回想録」という記事を読むと、一族の面々は、国外退去が暫定的な処置で、また直ぐに戻って来られると思っていたようである。それほど殺伐とした空気でもなかったのだろう。

80年代以降には、一族の子孫が続々とトルコへ戻って来ていたらしい。最近、“Sohbet - Name”というテレビ番組で、そういった子孫の方たちが思い出を語ったりしている。

共和国の初期、政教分離を始め、様々な革命事業が進められている時でさえ、惨たらしい粛清はなかったという。
その後、1960年のクーデターで極端に傾いた軍人たちが、メンデレス首相を処刑してしまう忌まわしい歴史の一幕もあったが、そうやって大きくバランスが崩れても、また巧く復元するバランス感覚がトルコの人たちには備わっているのだろう。トルコは政治的な危機が迫る度に、それを乗り越えて来た。
バランスをトルコ語では「デンゲ」と言い、これが備わっていなければ「デンゲスィズ」となるが、このデンゲスィズには、「頭のおかしい人」「調和を乱す人」といった意味もある。トルコの人たちが、いかにデンゲ(バランス)を重んじているかの顕れじゃないかと思う。
もっとも、あまりバランスを取ることばかりに汲々としていたら、俗物と言われてしまうかもしれない。トルコの社会には、そういう俗っぽさも結構感じられる。
2002年にAKPが政権を取ると、イデオロギーやっている高尚な方たちは、「政教分離の危機」を訴えて大騒ぎしていたけれど、気が付いてみたら、イスラム主義もバランスの良い所で巧く落ち着いてしまったかのようだ。
クーデターが取り沙汰されていた軍も、結局は巧くバランスを取ってしまったらしい。
現在、トルコは、PKKやISのテロ、ロシアとの対立、米利上げの影響等々と四方八方問題だらけだが、きっとまた巧い落としどころを見つけて、平らに均してくれるに違いない。そう祈りながら期待することにしよう。