メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

亡命したオスマン朝皇子の回想録(ラディカル紙/ジェム・エルジエス氏の記事)

2004年11月16日のラディカル紙より、ジェム・エルジエス氏の記事を訳してみました。

オスマン朝の皇子であった亡父の回想録がトルコで出版されたのを機会に、英国在住のオスマン朝後裔オスマン・セラハッディン・オスマンオウル氏はイスタンブールを訪れていたそうです。

****(以下拙訳)

コーヒーに付いてきた角砂糖の包装紙をなかなか剥がせずに苦労している紳士は、ちょっと私の方を見ながら、「宮廷で育ったりすると、こんな風になってしまうんですよ」と言った後で、それが冗談であることを示すかのように「ハッハッハ」と笑った。

オスマン・セラハッディン・オスマンオウルは、その姓氏から思い起こされる類の悲劇であるとか、華麗さに彩られた人生を送ってきたわけではない。

オスマン・セラハッディンは、オスマン朝の皇子の子息として、エジプトで生まれた。

その父アリ・ヴァスブ・エフェンディは、1876年に僅かな間玉座に就いたムラト5世の曾孫である。

オスマン一族がトルコからの亡命を余儀なくされた時、アリ・ヴァスブ・エフェンディは21歳だった。この為、亡命後の歳月ばかりではなく、オスマン朝最後の日々も充分に意識の中へ留めながら、その人生をおくったと言える。

オスマン・セラハッディン・オスマンオウルは、先達て、父親の回想録をまとめた本の為に、イスタンブールへ来ていた。

「ある皇子の思い出」と題されたこの本は、アリ・ヴァスブ・エフェンディが記し、その死後、子息の手に渡った回想録から成っている。

チュラーン宮殿において半ば軟禁状態にあったムラト5世の一族が、まずはフランスへ、さらにエジプトへ亡命しながら、そこで過ごした日々について、アリ・ヴァスブ・エフェンディは書き残していた。

しかしこれには、政治的な主張、悲劇的な追憶、驚くべき事実といったものが明らかにされているわけではない。旅行や人々との出会い、結婚式とか料理について記され、数多の個人名が登場する回想録は、1950年代の出来事にまで至っている。

「父はこれを出版しようなんて全く考えていなかったのです」とオスマン・セラハッディン・オスマンオウルは言う。

「回想録は、エジプトにあった母の家にあり、私はその存在を知っていたものの見たことはなく、母が亡くなった後、アレクサンドリアへ家を整理しに行った時に見つけました。今日まで出版されなかったのは、私がファイナンスの専門家として英国で多忙を極めていたからです」。

本には回想録ばかりでなく、アリ・ヴァスブ・エフェンディに関する資料やその写真、オスマン朝一族の家系図も含まれている。オスマン・セラハッディンさんは、この本が一族についての資料とされることも望んだのである。

「例えば、国外へ亡命した37人の皇子中、36人について記されていて、とにかく沢山の名前が出てきます。それで、誰が誰であるか読者の方にも解るよう、家系図を載せたのです。それに残念ながら、最近、オスマンオウル家の名を騙る者も現れた為、その意味でも資料として使ってもらえるんじゃないかと思いました」。

オスマンオウル家の主だった面々は、エジプト王家に招かれ、ヨーロッパからエジプトへ渡った。オスマン・セラハッディンさんは、少年時代を、王朝のスルタンや貴族、皇子らと共に過ごしたのである。

カイロの優雅なマンションで育ち、当時の中東では名門中の名門とされていた英国カレッジで学んだ。

「皇帝の子孫であるというのは、どんなことだったのでしょうか?」とオスマン・セラハッディンさんに尋ねてみたところ、「私にも、他の人たちに対するのと同じような態度で接していましたよ」と言い、別に変わった話を披露するわけでもなかった。

「ただ、私が通った学校には王侯たちが来ていましたね。ギリシャ国王コンスタンティンサウジアラビアの皇子たち、今は祖国の首相となっているブルガリアの国王シモン、アルバニア王の子息、ヨルダンのフセイン国王、エジプトのメフメト・アリ・パシャ一族の皇子たち。皆一緒に学んでいました」。

父のアリ・ヴァスブ・エフェンディについては、とても愛すべき人物であり、皆から慕われていたことを明らかにしながら、次のように語ってくれた。

「父は、人生を優雅におくりました。私のように、仕事に追われていたわけではありません。エジプトで暮らし、スポーツを楽しみ、歴史が好きでした。また、祖母たちのことをとても慕っていたのです」。

アリ・ヴァスブ・エフェンディは、カイロ近郊の宮殿と公園を管理する仕事をしながら、よく旅行に出たという。

「父との間に格式張った関係はありませんでした。私は彼を『セン(訳注:トルコ語の二人称単数)』と呼んだものです。

しかし、彼は祖父に対して『スィズ(訳注:トルコ語の二人称。複数或いは敬語的な表現)』を使っていたんですね。私たちの間には、現代に見られるような親子関係がありました」。

オスマン・セラハッディンさんは、ファイナンスを学んだ英国でそのまま暮らすことになる。三人の子供たちにトルコ語を伝えられなかったことを残念に思っていると言う。

既に、オスマンオウル家の殆どの人たちがトルコ語を話せなくなっているそうだ。それぞれが、その世代にあった生き方を身につけ、アリ・ヴァスブ・エフェンディが書き綴った困難な日々は、家族に伝わる哀しい思い出として残った。

「祖国から出た時、誰一人として、50年もの間、戻ることが出来なくなるなんて思わなかったでしょう。これは凄い歳月です。如何なる国でもこんなことはありませんでした。皇帝や王ばかりでなく、160人の一族が亡命するなんて・・・。スルタン・ヴァフデッティン帝やその近親者以外は、3~5年したら戻れると思っていたのです」。

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