2004年11月16日のザマン紙より、ヘルキュル・ミルラス氏のコラムを訳してみました。トルコ国籍のギリシャ人であるミルラス氏が、見た夢に託してマイノリティーの気持ちを吐露しています。
****(以下拙訳)
今トルコでは、マジョリティー側の人々が、マイノリティーについて議論している。
公にマイノリティーと認定された人たちからは殆ど発言がないばかりか、中にはパニックを起こして、マイノリティーではないことを証明しようとする者もいる。
これと似たような状況をギリシャでも、ほろ苦い思いの中で見つめたことがある。ギリシャのテレビ局で、純血のギリシャ人たちが円卓会議を開き、「ムスリムのマイノリティー(つまり西トラキアのトルコ人)」について議論していた。
しかし、そこにマイノリティー自身の姿は見られない。マイノリティーは、まるで口を開けない者から成り立っているかのようだ。魚か植物のように押し黙っている。本当は彼らこそが、驚きと怒りの中で発言しなければならないだろう。
そして、自分自身の状況を考えて見た。私はイスタンブールにおいて「公に認められたマイノリティー」である。
しかし、これを私が決定したわけではない。ある人たちが、私をマジョリティーから別けてしまったのだ。息子が生まれた時、身分証明書の宗教欄に「キリスト教」、宗派の欄に「ルム(訳注:トルコ在住-トルコ国籍-のギリシャ人に対する呼称)」と書き込まれたので、「そんな宗派はない」と抗議したが、担当の役人を納得させることはできなかった。
私は諦めずに裁判所へ訴え出て、この「ルム」を取り消させたが、こんなものが大した成功でないことは、その時も気がついていたのである。
バルカン半島では、社会の中でマイノリティーとしてのポジティブな権利も認められず、二級国民としての抑圧と疎外が再生産されている。「マイノリティーに成ること」を、社会から隔離し疎外することによって実施しているのだ。
そして、この状況を作り出しているのはマイノリティーの人々ではない、社会と国家自身なのである。
私は、マイノリティーとしての悩みや苦しみをマジョリティー側の人たちへ滅多に伝えることはない。これは、「満腹の人間には飢えた者の気持ちが解らない」といったようなことによるものだ。
未だこの問題を捉える感性は、社会の中に定着していない。この為、要求が不当なものに思われたりするだけでなく、もっと悪いことに、何事か懇願しているように見られてしまう。
だから、ザマン紙のこのコラムでも、自分自身の苦情については余り書かないことにしている。ただ、魚や植物のようになってしまわない為に、今これを書かなければならないと思ったのである。
差別の例をあげることに意味はない。知っている人にとっては周知のことだし、認めたくない人たちに、如何なる例を見せたところで何も伝わらないからだ。
これには、伝承の頓知話でも語るように、マジョリティー側に居て解っている人たちが、解らない人たちへ説き明かしてくれるのを待つよりない。そして、そもそもこれは、今日の状況と同様のことだろう。
ここで皆さんに、私が先日見た夢を説明したいと思う。
その晩、寝る前に、「社会の歴史」誌の最終号に掲載されていたハサン・ルザ・ソカックの回想録から「アタテュルクの最後の日々」を読んでいた。
翌朝、目覚めた時、戦慄を覚えながら、見ていた悪夢について考えたのだが、それは寝る前に読んでいた部分から生じたシュールレアリスムな夢だった。
雑誌に出ていたアタテュルクの最後は悲劇的で傷ましいものであり、苦しみの中で意識が段々と失われて行くのである。そこへ、最近読んでいたマイノリティーについての議論が重なってあの夢になったのだろう。
その夢とは以下のようなものだ。
私は、ある小さなアパートの一室で妻と一緒におり、隣の部屋には、余命幾ばくもないアタテュルクが横たわっている。我々は彼を労わり看護に努めているのである。
しかし、もう命がつきようとしていることは知っていて、如何に苦しみを和らげることができるかについて、妻と共に努力しているところだった。
アタテュルクが何か尋ねたので、「はい、なんでございましょう?」と言いながら、『この答え方は正しいのだろうか?』と夢の中で考え込んだりしている。
『他の人たちだったら何と答えるのか?』などと考え始めた矢先、突然パニックに陥った。妻の方を振り返り、「アタテュルクがギリシャ人夫婦の家で死んでしまったら、人々は我々に何をするだろうか?」と訊き、「我々が彼に何か悪いことをしたんじゃないかと言い出さないだろうか?」と狼狽する。
その後のことは思い出せないが、この夢は私が懐いている心の葛藤を表すものだと思う。
意識の下に潜んでいる怖れ、コンプレックス、不安が現れているところは教示的だ。そして、この夢の思い出せなかった部分(自分自身へも秘密にしようと忘れ去ってしまった部分)には、果たして何が隠されていたのか!
マイノリティーとは斯くも複雑なものなのである。社会の中でその位置がこのように定められた-通常、本人が生まれる前に定まっている-存在だ。
この為、ある者は打ちひしがれたまま押し黙っている。ある者はそれを隠そうとし、ある者は攻撃的になる。
マイノリティーの問題は、単に、法律、権利、平等、アイデンティティー、民主主義、ヒューマニズム、国家への属性といった問題ではない。これらと共に、その底辺には感情の問題が横たわっているのだと思う。
つまり、「向こう側にいる人たちを理解すること」、もしくは「自分たちと同じように見ること」の問題である。
これを解決する為には、まず社会として成熟しなければならない。マジョリティーの間に「社会的な平和」と安心がもたらされない前に、マイノリティーにその順番は回ってこないのである。
マジョリティーが言い争って、公衆の面前で他の人が認めた文書を破り捨ててみたり、意見を明らかにした人が裁判所へ訴えられたり、権利を主張した人が裏切り者扱いされたりする雰囲気の中で、マイノリティーの一人がどうやって自分の意見を述べることができるのか?
せいぜい、自分が見た夢でも説明するよりないだろう。
マイノリティーの存在を否定することと、マイノリティーを国民の中で平等に扱わないことは、同じメダルの表裏に過ぎない。
マイノリティーの権利を求める者にその権利が与えられないことと、自身がマイノリティーではないと主張する者を社会の中で疎外しようとすることは、同じ考え方に基づく恥知らずな表裏二面の顔である。
しかし、一部の者はそれでも恵まれている。1997年、ギリシャの新聞に掲載された「もう一つの小さなトルコ」と題する記事にも書いたが、私には失うまいと守って来たものがある。
それは私の友人達であり母国(訳注:トルコのことだと思います)の人々である。物心がついた頃から、私の周りにはそんな友人達がいた。
育った街や学校、さらに政治的な論争の中でも、芸術やスポーツを楽しむ中にも、軍役についていた時にもいた。
教え子の全てもそうだし、私の本を出してくれた出版社や民間の団体にも友人達がいた。
人間を人種や宗教、言語によらず(これは憲法にもあるが余り実施されていない)、その態度によって見るのであれば、それは忍ぶことができるものだ。
こういった友人達と共にいる時には、一人のマイノリティーも自分をマジョリティーであるかのように感じることができる。これは同化ではなく、一体化と言えるだろう。
ある時は、その中でマイノリティーと感じることもあるが、それは言語や宗教に由来するものではない。政治的な意見やイデオロギーによるものだ。
これは、人種差別などとは関係がない、違うマイノリティー感覚であり、堪えることができる。親愛なる読者の皆さん、私の状況はこんなところかもしれない。
前述した私の古い記事に、私が拠り所としているトルコの友人達の輪について記した詩のような一節があるので、これを最後に友人バスクン・オランへ捧げたいと思う。
狂った大きなトルコとどうやって渡り合えるものか?
その中に小さな甘いトルコを見出すことができなければ。
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