メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

高校時代の部活

高校の部活で柔道やっていた時の思い出を書いたけれど、顧問の先生の方針もあって、厳しい“しごき”はなかったから、私のような軟弱者でも何とか続けることが出来ました。

高校は全寮制で、少々体育会系的な傾向があり、部活に励まない者は白眼視されるような雰囲気が感じられ、私も入学入寮と同時に各運動部の先輩たちから勧誘を受けると、柔道部の先輩が最も優しげに見えたという意気地のない理由で入部を決めてしまったのです。

ラグビー部等の厳しさは、入寮した時点で既に知れ渡っていて、“我こそは”と思う気概のある連中は、正反対の理由でこちらを目指しました。

実のところ、私は、あんな生半可な気持ちで入部するのではなく、「部活をやる意志はありません」とはっきり断るべきだったかもしれません。

しかし、情けないことに、あの雰囲気の中でそうやって断る意志さえ持ち合わせていませんでした。

顧問の先生は、若い頃に柔道の選手として鳴らしたバリバリの体育会系であり、何処から見ても“恐い先生”というイメージで怖れられていたものの、「この学校の部活は、選抜された者から成り立っているわけではなく、体力もそれぞれ異なっているから、無理なしごきはしないように」と仰り、毎日の練習も自ら指導されていました。

必ずしも“勝つこと”を目的とした部活ではなかったのです。

数年前にラグビー部出身の畏友と飲んでいた時に、上述のような経緯を話したら、「スポーツは必ず勝利を目的にしなければならない。その指導方針で良かったのか」と首を傾げられてしまったけれど、勝利を目指す厳しい練習が待ち受けていたら、私は直ぐに逃げ出していたでしょう。

最初から部活をやる意志はなかったのだから、その方が良かったと言われれば、それまでですが、私は曲りなりにも部活を続けて卒業できたことを今でも先生に感謝してやみません。

あそこで逃げ出す羽目に陥っていたら、あるいは初めから部活に入らなかったら、自分がどれほど碌でもない人間になっていたのか、想像するだけでも恐ろしくなります。

柔道部では、先生や先輩ばかりでなく、同輩や後輩からも励まされて、どうにかこうにか続けられました。私にクラシック音楽の妙味を教えてくれた友人も柔道部の同輩であり、彼はなかなか柔道のマエストロでした。

伊豆七島の出身で、子供の頃から柔道に親しんできた彼は、実に多彩な技を駆使する名手だったけれど、私が練習について行けずに落込んでいると、「お前の体力では無理なこともある」と励ましてくれたものです。

2年に上がった時は、「新入生に同じ島の奴がいたから無理やり柔道部に引っ張り込んでやった。なにしろひ弱な奴だから、あれならお前でもぶん投げることが出来るぞ。有り難く思え」と妙な励まされ方をしたものの、件の新入生を見たら、私より背は高いし、ひとつもひ弱そうには見えなかった為、「話が違うじゃないか」と文句を言ったところ、「島じゃあれが限界。あれよりひ弱な奴はいない。俺はお前を見て、“都会にはこんな生っちょろいのがいるのか”と驚いたくらいだよ」なんて言われてしまいました。

部活は2年までで、3年になれば毎日練習に出なくても良いことになっていたけれど、いつも中途半端な私は、2年間の部活で何かをやり残していたように感じていたので、3年になっても一学期の間は毎日練習に出ていました。そして、いつも見に行くだけだった都大会の地区予選にも出させてもらったのです。

私は60㎏以下の軽量級で出場しましたが、この地区予選では“55㎏以下の優先シード”などという妙なものが設けられていたお陰もあって、あろうことか、そのまま勝ち抜いて都大会にも出場してしまい、まるで夢を見るような気分でした。

やはり、人間、勝って嬉しくないわけはありません。私はあの地区予選の日を今でも鮮明に思い出すことが出来ます。

講道館の都大会は、トーナメントに出場する前の選抜戦で敗退したものの、先生に後楽園のカレースタンドで夕飯を御馳走になり、忘れられない思い出となりました。

それから、あれは都大会の前だったのか後だったのか、その辺りが良く思い出せませんが、学校で漢文の先生から職員室に呼び出されたことがあります。

この先生は小柄な方で、体育会系ではありませんが、教育熱心な厳しい先生として有名だったので、私は『俺、何も悪いことしていないよな?』とびくびくしながら職員室へ赴いたところ、先生は私を近くまで引き寄せ、「おい、お前、都大会の為にいくら袖の下を使った? こっそり俺だけに教えろ。お前が只で都大会へ行けるわけないからな。さっ、早く教えろ」と冗談ぽく迫ってから、にっこり微笑んで、「お前、良かったな。俺も嬉しいよ」と仰ってくれたのです。

ちょっと風変わりな褒め方でも、この先生からお褒めの言葉を頂けるとは思っていなかったから、私は涙が出るほど嬉しく感じました。

さて、柔道部の練習では、道場から出て、外を走って筋トレする時もあれば、12.5㎞のクロスカントリー・コースを走れば終わりという日もあり、私はこのクロスカントリーになるとえらく張り切ったものです。

普段、道場では、ぶん投げられてばかりで余り良い格好は出来なかったのに、この部活のクロスカントリーでは、多分、2年になってからトップの座を譲ったことは一度もなかったと思います。

私は小中を通して、体育はいつも1、運動会等の徒競走では必ずドン穴の定位置を守ってきたものの、心肺機能は良かった為、少し距離が長くなれば、ドン穴から救われました。まあ、高校時代も体育の授業にある3~4㎞のコースでは余りパッとしなかったけれど、部活のクロス・カントリーは、そもそも柔道部に“走る体型”の奴が殆どいなかったこともあって、2年になってからは断トツの速さでした。

ところが、学校で年に一回開催されるクロスカントリー大会では、2年の時も体調が悪くて、情けない結果に終ってしまいました。

それでも、柔道部以外の友人たちは、体育授業の私しか見ていないから、「嘘だろ、お前がこんなに速いとは思わなかったよ」と言うのですが、却ってそう言われる度に、『本当はもっと速いんだよ、クソ!』と悔しく堪りません。それで、このクロスカントリー大会は、1~2年生だけに義務付けられていたのに、私は3年の秋にもう一度出場しました。

しかし、夏休みを経て二学期になってからは部活にも出ていなかったし、自主的にトレーニングするつもりだったけれど、根性が怠慢に出来ている私には、ある程度、管理された状態でなければ身の入った練習など出来るわけがなかったのです。

結果は、2年の時よりも酷く、とりあえず完走しただけで、呆れ返って悔しい気持ちにもなれませんでした。

高校を卒業してから30年、あの地区予選のような出来事は二度と起こらなかったものの、3年のクロスカントリー大会で味わった“悔しさも感じられない敗北感”は幾度となく繰り返されて来たように思います。“鉄は熱いうちに打て”の言葉通り、打たれなかったなまくらはこのまま錆びていくということでしょうか。

この歳になって、しかも何らかの組織に所属しているわけではないから、もう厳しいことを言ってくれる人はなかなかいないし、自分で管理して行かなければなりません。

世界大不況の暗いニュースを聞きながら、『これは、今まで不届きな人生を送って来た私に、天が降した大鉄槌じゃないのか』なんて脅えている場合ではないのです。まだまだ敗者復活戦があるつもりで頑張らないと・・・。