メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ヨーロッパに比して階級の区別が明確になっていないトルコの社会(ラディカル紙/ムラット・ベルゲ氏のコラム)

2004年10月10日付けのラディカル紙よりムラット・ベルゲ氏のコラムを訳してみました。オスマン朝に由来するトルコ社会の特性が説かれています。

****(以下拙訳)

オスマン朝の歴史を記す達人であるハリル・イナルジュクがもう随分前に明らかにしたところによれば、オスマン国家の社会的及び経済的な基盤は、「耕作の家」と名付けられたシステムによってもたらされていた。

このシステムは田畑を耕作する農家に依存するものだ。オスマン朝の時代、国家の定収入の大きな部分は、ティマル・ベイたちによって農家から徴収される税だったのである。

古い時代には、軍事的な責任も負わされていたティマル・ベイの財政や傍らのティマルル・スィパヒたちの軍備もこの税に頼っていた。

システムの中心にあった国家は、このような重荷を背負わされている独立した農民たちの重要性を時を経て理解するに至った。

王朝の存続は、他の様々な政策と共に、この社会的な基盤を如何に守っていくかに掛かっていることを理解したのである。その保護政策は、オスマン朝の長い歴史の中で最も安定した政策の一つとなった。

一時期(特に1960年代)、左派の間で、トルコ共和国オスマン朝から受け継いだ社会的な特性が熱心に議論され、それは封建的なシステムであるという意見が広範囲な支持を得た。

しかしながら、オスマン朝が最も力を注いだのは、封建制の形成を妨げることであり、これに成功していたのである。

今日のトルコをヨーロッパと異なるものにした主な要因は(そして、幾つかの点でアメリカへ近づけた要因は)、ヨーロッパ型の封建制がここでは形成されなかったところにある。

ティマル・ベイはヨーロッパに見られたような封建領主ではなかったし、農民も「農奴」ではなく独立した農民であった。

「耕作を止める(つまり他の土地へ移る)」ことは禁止されていたが、ヨーロッパ封建制のように法制化されたものでなかった。

その結果は、今日も「社会の流動性」といったところに反映されている。特に1908年以降、社会の底辺から最上部まで成り上がった人たちにこれを見ることができる。

「戦争成金」や富裕税導入以降の成金。民主党時代の「巡礼地主」。オザル政権時代の成金。これらは様々な例の中でも取り分け目立った存在であるに過ぎない。

この為、トルコでは社会の最上部と最下層の間にある貧富の差は驚くほど大きいが、それぞれの文化的な違いは、これまた驚くほど少ないのである。

ここでは、ヨーロッパに見られるような(もしくは見られるほど)階級文化は明らかになっていない。それどころか、それほどの階級文化は存在していないとも言えるだろう。

文化的な違いは階級というより教育によってもたらされている。もちろん、これには階級による間接的な影響が見られるが、それはあくまでも間接的であり部分的なものだ。

なぜなら、教育過程を成功裏に終わらせた者の中には、中産層あるいは貧困層の子供たちがかなりいるからである。(訳注:例えば、貧農の出であった前大統領のデミレル氏は義務教育以降、大学までを全て奨学金で終わらせたそうです。)

オスマン朝時代の一部も含まれるここ数百年を振り返ってみて一般化するならば、トルコの社会史の中で階級という要素は、ヨーロッパで見られるような隅々まで広がった指標にはならなかったと言っても良いだろう。

もちろん、この階級が無いということは、「一部の特権もなく一つに溶け合った社会」という意味ではない。

ただ、階級の区別が西欧社会に比べて厳しくなく曖昧であり、社会の中における下落上昇が、より少ない障害でもって受け入れられていたということである。

国家と民衆の間に、土地を所有する貴族や資本を持ったブルジョワが存在しなかったことは、より均一で、国家の権威を前にして驚くほど従順な社会を作り出した。

そして、この国家は多民族による帝国であった為、宗教・民族・言語の区別が社会的な相違をもたらす目に見える軸となることにより、階級的な区別は全くなくなったわけではないが、それはカムフラージュされてしまった。

民間資本の蓄積が遅かったことも、この「小規模な生産者による社会」の寿命を長いものにし、イデオロギーの定着を容易にしたのである。

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