メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコにおけるムスリムによる政教分離の可能性(ラディカル紙/アヴニ・オズギュレル氏のコラム)

2004年3月11日付けのラディカル紙より、アヴニ・オズギュレル氏のコラムを訳してみました。アタテュルクには反宗教的な考えがなかったとか、政教分離の体制に対してイスラム主義の立場から反抗したエルバカン氏の活動が却って体制とイスラム主義者の和解をもたらしたというような興味深い見解が述べられています。

****(以下拙訳)

トルコ共和国が複数政党制に移行した1946年以来この方、選挙民の選択は全く変わっていない。トルコ国民の65%が、右派もしくは宗教色の強い保守政党に票を投じ、35%は政教分離の原則を鮮明に打ち出した政党を支持して来た。

また、政治的に政教分離を強調する政党へ票を投じた国民が信仰を持っていなかったり、宗教を蔑ろにしていたというわけではない。

▽国民の75%は敬虔な信者

実際、あるアンケートの結果によれば、トルコ国民の75%が自らを「敬虔な信者」と見ていることが明らかにされている。これを裏付けるものとして、「女性のスカーフ着用問題」について各大学が実施した調査の結果を示すことも可能だ。つまり、国民の大部分が、信仰や信仰へ敬意を表すことが必要であると感じており、宗教が国家や社会の中で大切なものとして蔑ろにされず、活用されることを望んでいるという事実が浮かび上がる。

それから、トルコ共和国の基本的な原則の一つが政教分離であると共に、イスラム教の神聖な祭日が公的にも祭日として認められていることや、共和国の創設期に宗務庁が、参謀本部と同じ日に同じ法律によって設立されたこと、そして以来80年に亘ってこの機関の長には、アタテュルクの指示によって、オスマン帝国時代と同じくハナフィー派に属しマトゥリディ信仰に基づく者が任命されて来たことを見逃すわけにはいかない。

ローザンヌ会議

アタテュルクが、ローザンヌ会議におけるイスメット・イノニュに対し、東部の国境について話し合われている際には、トルコ系民族の存在に留意するよう望み、ギリシャとの国境および住民交換が話し合われている時は、特にムスリム住民と彼らの居住する地域を獲得するよう望んだことは意味深い。

さらに、アタテュルクは、ブルサのアメリカン・カレッジで学んでいた女生徒2名がキリスト教に改宗するや、このカレッジの閉鎖を命令している。アタテュルクがそれ以前から、「裏切り者の巣窟」であるとして閉鎖を望んでいた外国人経営の学校が、1924年の教育法により政府の管理下に置かれことは、一般的な見解と異なり、この教育法発令の目的が、当時、目立って増えて来たこの外国人経営の学校に関るものであったと理解することができる。

この教育法により、メドレセ(オスマン帝国時代の学校・イスラム学院)も含めて宗教的な教育を行う学校は閉鎖されず、教育省に帰属しただけだった。そして、第4条では、大学に神学部を開設するよう政府へ命じている。

▽アタテュルク以後

アタテュルクの死後、政教分離が進められる中で反宗教的な態度が明らかになって来た。今日まで続く民衆の憤激をもたらした変革の全てが、アタテュルクの病状が悪化した時期に大統領となったイスメット・イノニュと首相の座に就いたジェラル・バヤルの政権により実現されたことは疑いもないだろう。この時期、「国民の領袖」というプロパガンダが高まりを見せ、アタテュルクの名や肖像が国家の中から消え去らんばかりになっていたことを忘れてはならない。

しかし、尽力したにも拘わらず、このプロパガンダが失敗に終わったことで、トルコには、政敵に対してアタテュルクの肖像を掲げて闘うという偽りの政治舞台が用意されてしまった。アタテュルクの名を盾のように使った為、民衆の心を憤激させるような変革の責任者はアタテュルクであるという認識が根付いて行く。最悪なことに、政教分離を強調する者たちは、これがアタテュルクの名を傷つけてしまうことに全く考えが及ばなかった。

▽国民秩序党

トルコが自らを食い潰すような時代に幕を下ろし、内面的な清算と和解の道を切り開いたのは、その思想を認めようが認めまいが、ネジメッティン・エルバカンが政治の舞台に登場したことによるだろう。先ず、ネジメッティン・エルバカンが国民秩序党により始めた闘争が、美徳党まで続いたことは否定できない。そして、今日、国民的な合意に基づいて政権に在るAKP(公正発展党)を、エルバカンが始めた闘争とは全く別のものとして評価するわけにはいかないのである。

現在50代以上の人たちやトルコ現代史に興味がある人たちならば御分かりになると思うが、国民秩序党で活動を始めた時にエルバカンが持っていた思想と、その活動が頂点に達した美徳党時代の思想には、山ほど大きな違いがある。その変化は体制から押し付けられたものであるとか、エルバカンが引いた所為であるとか、色々言うことができるだろう。しかし、その結果、エルバカンは、自分自身と共に、過激な考えを持った多くのムスリムたちを、体制と和解できる地点にまで連れて来てしまったのである。

▽到達した地点

トルコ国民の大部分を占める宗教を蔑ろにはしていない人たちが、民主主義や西欧との統合を承認し、政教分離そのものではなく適用の仕方に不満を持ち、メンバーの殆どがエルバカンの薫陶を受けている政党へ国政が任せられていることを余り不愉快に思っていないのであれば、ここにエルバカンの功績もあることを認めるべきだろう。

しかし、だからと言って、「今到達した地点こそ、エルバカンが目指していたものだった」などと言う気はさらさらない。それどころか、国際社会の動向を理解できず、それと衝突して砕け散ってしまった政治運動の指導者がエルバカンなのである。

エルバカンが社会の変化を正しく分析していたとは思えない。それでも、先ずは、彼が引き金を引いたダイナミズムによりトルコが到達した地点を見なければならない。

政教分離に関しては決して譲歩しない軍部も、80年の間に必要あるいは不必要な政治への介入を行ったことで、納得し難い批判にさらされたという考えから、「適当なところでの和解」を求め始めている。

この時点で、エルドアン現首相が歴史的な使命を担っていることは明らかである。現首相が、イスラムの価値を大切にしている人たちを代表していることは、どこから見ても疑いのないところだが、この首相は、2004年の末にEU加盟の青信号が点灯した場合、トルコに国内の平和をもたらす新たな「国民の誓い」を実現させるチャンスを持っているのである。

そして、この「誓い」の焦点に、宗教と国家の関係がなければならないことは明白だ。

▽国家と宗教

現在トルコが到達した地点で、以下のことを楽に申し上げることができる。
・「我々はイスラム国家である」などと叫ぶ必要はない。
・トルコの法体系は元々イスラムに反する性質のものではない。
・宗教が大切にされていないという不満の原因は装飾的なものが欠けていることにある。
神秘主義の流れを汲む各グループが不満に感じている種々の制約は、EUから得られる成果により、望むと望まざるとに拘わらず消滅する。
・現在でも、神秘主義に関して最も広範囲な制約は、イスラム国家を標榜する国々に存在している。
・トルコは、近代的なムスリムの国々や非ムスリムの社会に向けて、心を豊かにする宗教上の解釈を導き出せる神学者の育成が可能が唯一の国である。

そして、エルドアン首相が次のように語ったことは、トルコ国民の気持ちを安堵させている。
政教分離と民主主義の体制、アタテュルクおよび軍との間には如何なる問題も存在していない。
・不充分で誤った意図的な歴史解釈により削られてしまった価値観を、国民的な次元において正当な形で守る為、あらゆる手段による文化的な活動、教育を開始する。

また、上述の「装飾的なものが欠けている」という表現であるが、これは、西欧の慣行に倣って、国会や裁判所のような公的エリアにおける儀式が、宗教上の神聖な文言を無視して行われていることであるとか、知事や知事から任命された役人の持っている婚姻を承認する権限が、高位のイスラム教導師には認められていない、といったような原則とは関係のない「瑣末な事柄だが心に安堵をもたらす装飾的なもの」が欠けているという意味である。

私は、トルコが国内の平和を築く過程で、政教分離ムスリムの立場で解釈できるように成ると信じている。その時、私たちは恐らく、斯くも長きに亘って自らの影と争って来たことに心を痛めるに違いない。

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