メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ネパールのモモも美味い!

昨日は姫路港まで家から自転車で出かけても良かったが、姫路まで行ったら、あのインド料理屋「シャンカル」に寄ってネパール料理のモモでビールを飲みたいと思ったので、姫路駅前で自転車を借りることにしたのである。

そのため、時間的に余裕が生じたお陰で、手柄山にも上って姫路城を眺めることも出来た。

モモは小籠包のような料理で、カレーの風味も少し効かせてあったりしてなかなか美味い。昨日のモモは皮もモチモチして特に美味かった。

それから、チョウミンという焼きそばのような料理も食べてみたけれど、こちらは、まあ普通に「カレー風味の焼きそば」といった感じだった。

しかし、ネパール料理には、こうして中華の影響もみられるところが面白いと思う。

最近は、ネパールばかりでなく、インドにも「インディアンチャイニーズ」と呼ばれるジャンルの料理が出てきているらしい。この巨大な食文化の融合はとても興味深い。

ベトナム料理もそうだが、ネパール料理は在留ネパール人の増加と共に広まりつつあるという。

モモやダルバートがポピュラーな味覚として日本の社会に根付く日も近いような気がする。

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トルコの朝食はオリーブとチーズ!

昨日は、夜勤明けに家で少し寝てから電車で姫路へ。駅前で自転車を借りると、一路姫路港を目指した。

何故、姫路港なのかと言えば、小豆島フェリーのターミナルで小豆島の特産品であるオリーブが土産物として売られていないかと思ったからだ。

トルコに居た頃は、高血圧対策で減塩していた期間を除いて、冷蔵庫にチーズとオリーブの買い置きがなかったことは滅多にない。朝食はそのチーズとオリーブで済ませたりしていた。

オリーブは塩漬けの黒いオリーブで、チーズと共に市場で買い求めていた。市場では様々な種類のオリーブが売られていたけれど、各種の黒いオリーブが緑色のオリーブよりも多いくらいだったのではないかと思う。

ところが日本では、何処でも緑色の方ばかりで、なかなか黒いオリーブが見つからない。神戸駅の「成城石井」にもなかった。

それから、『日本でオリーブと言えば小豆島じゃないか!』と思いついた。

しかし、日帰りならともかく、泊りがけで小豆島を観光するような経済的余裕は全くない。日帰りでは何しに行ったのか解らないまま終わってしまうだろう。

そこで、とりあえずフェリーのターミナルまで行けば、売店でオリーブを売っているかもしれないと考えたのである。

結果から申し上げると、ターミナルには土産物を売っている店すらなかった。かつては、近くに小豆島の特産品を売る店もあったそうだが、あまり流行らなかったので止めてしまったらしい。

残念だったが、出航する小豆島行きのフェリー「おりいぶ丸」を見れたのは良かった。

黒いオリーブも帰りに寄った姫路駅近くのカルディで見つかった。姫路港まで行ったのは出航する「おりいぶ丸」を見送るためだったということにしよう。

そして今日、朝食兼昼食に早速そのスペイン産の黒いオリーブを食べてみた。成城石井で買ってきたゴーダチーズも添えて、ほぼ「トルコの朝食」を再現したつもりだった。

ところがである。この黒いオリーブが情けなかった。塩分が控えめなのは良いけれど、油脂分も控えめで、トルコの美味しい黒オリーブにはほど遠い代物である。オリーブオイルを取った後のオリーブなんだろうか? 脱脂粉乳ならぬ「脱脂オリーブ」だったのか?(そういえば種もない。脱種?)

あれが「黒いオリーブ」だと思われたら、確かに緑の方を買いたくなってしまうに違いない。

トルコの黒オリーブは、表面が油光りするほど油脂分があり、オリーブの風味が豊かで実に美味しい。

先日、近所のイオンスーパーにトルコのオリーブオイルのブランド「Yonca」が並んでいるのを見て驚いた。あの「Yonca」のラベルはトルコで見慣れていたから、『これはオリーブオイルだな』とそのまま行き過ぎて、はっと立ち止まった。ここは日本である。

どうやら、イオンが「Yonca」と提携して輸入販売しているらしい。ついでに実の方も扱ってくれたらと思う。

他にもトルコには美味しい食材がたくさんある。今後、輸入を手掛ける企業も増えるだろうと期待したい。

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2015年11月・イスタンブールの市場に並ぶ黒いオリーブ






コロナ騒ぎと不思議な世の中

最近、銭湯がかなり混みあうようになった。やはり、以前はコロナ騒ぎの影響で客足が遠のいていたのだろう。

もちろん、浴場内でマスクをしている人などいない。脱衣場も同様である。スペースの狭い脱衣場は超過密な状態にもなっている。

さらに、私のような1人客はともかく、連れ立って来ている人たちが「黙浴」なんていう注意書きに従うはずもなく、賑やかな活気も感じられる。ここだけは平常の生活が戻って来たかのようだ。

しかし、入口には「マスク着用」と大きく書かれていて、受付の係員は着用していない客に注意を促している。

そのため、私も入口の前でポケットからマスクを取り出して着用し、受付で支払いを済ませ、脱衣場に入ると速やかにマスクを外してポケットに収める。これでは何のことだかさっぱり解らない。

銭湯を運営している人たちは、脱衣場や浴場内がどういう状態になっているのか百も承知しているだろうに、何とも不思議な世の中になってしまったものだ。

大谷選手が大活躍したメジャーリーグでは、ベンチの選手たちはもちろん、観客の多くもマスクなどしていなかった。豪快なホームランを放った大谷選手は、同僚たちから熱烈なハグでベンチへ迎え入れられていた。

ところが、日本のプロ野球を見ると、ベンチの選手たちは、皆、マスクをしていたりする。本当に不思議な世の中だ。

私には、マスクの効用やワクチンの効果など、医学的な知識がないから解らない。公表されている死亡者の数やその年齢層から判断して『それほどのリスクがあるのか?』という疑念を抱いてきただけである。

しかし、その僅かなリスクに不安を感じている人たちへ如何なる反論を試みても無駄になると思う。

それで、治験例が充分とは言えないらしいワクチンの危険性が取り沙汰されていても、『安心とやらを得るには接種率を高めて行くしかない』と考えたりした。『安心のためには多少の犠牲はやむを得ない』なんてとんでもないことを考えていたのだ。

ところが、接種率が高まっても、次から次へとネガティブな報道がもたらされるので、「安心」は一向に得られる気配がない。

いったい、日本の社会が平常の活気を取り戻すためには、他にどういう方法があるのだろう?

merhaba-ajansi.hatenablog.com

 

 

ベトナムの人たちの街

80年代の後半、あの頃も日本には海外からたくさんの人たちが働きに来ていた。

当時、日本は経済大国と持て囃され、好景気に沸いていたから、労働条件は厳しくても、彼らが日本で働くメリットは大きかったのだろう。

89年、韓国の会社の東京の支店で働いていた私は、友人たちと何度か小岩辺りに出かけて東南アジア各国の料理を楽しんだりした。

JRの小岩駅で降りると、『ここはいったい何処の国だろう?』と思えるくらい外国の人たちが多かった。

駅の周辺には、タイ料理、ベトナム料理、フィリピン料理等々の看板を掲げる店がひしめいていたけれど、その多くが自国の人たちを対象にしていて、中には日本語のメニューを用意していない所もあった。

そのため、本場の料理だけでなく、各国の雰囲気も楽しむことが出来たので、「さて、今日の東南アジアツアーは何処にしよう?」なんて喜んでいた。

おそらく私は、「タイのトムヤムクン」も「ベトナムの生春巻き」も、あの「東南アジアツアー」で初めて味わったのではないかと思う。

東南アジア各国の料理は、いずれも甲乙付け難いくらい美味しい。そもそも、どの国も気候の条件が良くて豊富な食材に恵まれているから、料理が美味いのは当たり前なのかもしれない。

今では、トムヤムクンも生春巻きもポピュラーな味覚として日本の社会に受け入れられているようだ。

この30年で私たちの味覚はとても豊かになった。中華料理も、四川であるとか広東であるとか、その地域にまで拘るようになった。韓国料理などは、本場韓国での流行が直ぐに伝わって来る。有難い時代になったものである。

先週は、友人と大坂でベトナム料理を楽しんだ。生春巻きと豚肉の煮物が実に美味しかった。毎日、ベトナム料理店に通いたくなってしまうほどだった。

それで、一昨日、神戸の近辺でベトナム料理店を探してみたみたところ、長田にベトナムの人たちが多く住んでいて、料理店も数か所あることが解った。

そして、今日、夜勤が明けると、早速、長田まで行ってきた。一応、「PHO KOHA フォーコハ」という店を目標にしてみたけれど、そこへ行きつくまで、同じ商店街の中に3軒も他のベトナム料理店が現れた。確かにここはベトナムの人たちの街になっているらしい。

今日は、夜勤明けの朝食兼昼食だったので、軽く「牛肉のフォー」を食べてみたけれど、あの街は夕方になってから何度でも探索に来なければならないように思われた。もっとも、そういう時間的、経済的な余裕があればの話だが・・・。

しかし、周囲の商店街の寂れた雰囲気が悲しかった。行き交う人もお年寄りばかりで、若い人たちが本当に少ない。あれでは、ベトナムの人たちも元気が出ないのではないか。

思えば、89年の小岩駅の周辺は活気に溢れていた。そのためか、海外から働きに来ている人たちの目も輝いているように見えた。

あの人たちの殆どは、一定の貯蓄を得た後、故国へ帰ってしまっただろう。当時、彼らが日本に定着できるようにしていれば、その子供や孫たちで街は賑わっていたかもしれない。今になって考えてみたところで仕方がないけれど・・・。

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移住した南米から帰国した先輩親子

昨日の夜勤明け散歩では、神戸モスクの近くにある「移住ミュージアム」にも寄ってみた。

ひょっとしたら、41年前、妙高高原赤倉温泉の観光ホテルで働いていた時に知り合った人の消息が掴めるかもしれないと思ったからである。

その人は職場の先輩で、当時27歳ぐらい、私より8年ほど年長だった。北海道で生まれ、10歳の時に父母と共に移民船でアルゼンチンへ渡ったという。しかし、15年間、アルゼンチンで苦労した末に母親が同地で亡くなると、父親と二人で日本へ戻ってきたそうだ。

父親の出身地は赤倉温泉の近くで、若い頃、北海道へ開拓に行き、それからさらにアルゼンチンへ渡ったのである。

結局、開拓の夢が破れて帰国すると、頼れるのは故郷の村しかなく、そこで観光ホテルの仕事を斡旋されたらしい。

私がホテルで働いていた当時、父親の方はホテルが東京で経営していた学食レストランに出向していたため、私はこの方と正月に顔を合わせる機会があったぐらいじゃないかと思う。

息子である先輩とは、9カ月近く同じ寮の部屋に住んで同じ職場で働いたから、懐かしい思い出がたくさんある。

いつもイタリア語で調子っぱずれのカンツオーネを歌う、素朴で気持ちの優しい先輩だった。

辞めてから1年経って、旅行でホテルを訪れたら、先輩もホテルを辞めた後で、ホテルの同僚と長野市内で喫茶店を開いたそうである。

もちろん、その喫茶店も訪ねてみたが、既に人手に渡っていたばかりか、財務上の揉め事で訴訟沙汰になっているという。

先輩側の弁護士に電話で問い合わせたところ、「・・・確かに好人物でしたが、日本の常識的なことが良く解っていなかったので・・・もう、うちの事務所にも来なくなって連絡もつかない状態です」といった内容の話を聞くことが出来た。

父親の方は、その頃、入院中で余命幾ばくもなかったか、既に亡くなっていたのか、私の記憶も曖昧だが、いずれにせよ、先輩の消息を知る手掛かりは得られなかったのである。

昨日、「移住ミュージアム」では、係の方がアルゼンチン渡航時の乗船名簿等を丁寧に調べてくれたものの、乗船名簿にそれらしい氏名は記載されていなかったようだ。渡航後の行方を調べる手立ては全くないらしい。

しかし、係の方から、南米への移民船が1973年まであったという話を聞いて、非常に驚かされた。1973年と言えば、私はもう中学生になっていたけれど、当時、日本の農村はそれほど豊かになっていなかったのだろう。

それから僅か10年後に、日本はバブル景気を迎えたが、その後はどうなってしまったのか・・・。日本の繁栄とは何とあっけないものだったのかと溜息が出る。

そして、先輩の父親の人生を考えてみる。貧しかった故郷の村から、開拓の夢を抱いて北海道、さらにアルゼンチンにまで出かけた末、夢破れて帰郷し、4~5年後、バブル景気を前に亡くなってしまう。

亡くなった当時の年齢は、今の私と同じくらいだったかもしれない。

私も夢を追ってトルコまで行き、20年暮らして日本へ舞い戻ってから4年になる。

間もなくポックリ死んでしまうのか、まだまだ生き永らえるのか、その辺は良く解らないが、今までの人生を振り返ってみただけでも私は遥かに楽で恵まれている。これは実に有難いことだと思う。

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縁起の良い日は昼飯も美味しい!

今日の夜勤明け散歩は、勤務地のポートアイランドから三宮、新神戸、北野、元町というコースだった。

昼飯を神戸モスクの近くにある「シャワルマ」というケバブ屋さんで食べようと計画したため、開店の11時に合わせたコースになった。

また、今日はイスラム預言者生誕を祝う日なので、それに合わせて神戸モスクで記念の写真を撮ることも目標に定めていた。

「シャワルマ」は2か月ほど前にオープンしたそうだ。先月の夜勤明け散歩で見かけて、ネットで調べたら、シェフはトルコ人という記述もあり、是非訪れて見なければと思った。

11時頃に着くと、まだ店には他のお客さんもいなかったから、気軽にトルコ語で話しかけ、「Mevlid kandiliniz mübarek olsun.(生誕祭おめでとう)」と挨拶しただけで、直ぐに打ち解けた雰囲気になって暫く雑談した。

実を言うと、この時点では、雑談しているシェフの名前さえ解っていなかったけれど、何だか随分前から知り合っていたような気分になっていた。

トルコではこんな出会いが良くあった。バスで隣り合わせになって話し始め、お互いの目的地へ着く頃には、旧知の間柄、友人のようになっているのも珍しくなかった。

何故だろう? トルコの人たちにはなかなか不思議なところがある。ひょっとすると、トルコ語にも直ぐに打ち解けて話しやすくなる力が潜んでいるのかもしれない。

「シャワルマ」は夜勤明け散歩の重要な拠点の一つになりそうだ。今日は、やはりとても縁起の良い日なのだろう。Mevlid kandiliniz mübarek olsun!

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ラーメンの第一旭

今朝は、夜勤明けに神戸駅まで歩いて「第一旭」のラーメンを食べて来た。2時間歩いて、ちょうど開店の10時過ぎ、ほぼ計算通りだった。

第一旭は京都が発祥の地であり、神戸の第一旭は「神戸ラーメン第一旭」と称するのが正しいらしい。

いずれにせよ、関西を中心に展開しているラーメン店なので、関東の人たちには余り馴染みがないかもしれない。

逆に、喜多方ラーメンなどは関西で殆ど知られていないようだ。

ネットで検索したら、大阪に1店舗があるのが見つかったけれど、95年、川崎に居た頃、喜多方ラーメンを良く食べていたから、1店舗は何だか残念である。

しかし、ラーメンで全国展開をしているチェーン店はあるだろうか? 

何故か知らないが、ラーメンはなかなか地域性の強い料理であるような気がする。

第一旭は、97~98年、大阪に居た頃、良く食べていた。今日は23年ぶりだったのではないかと思う。

23年前の味覚を思い出せるわけじゃないけれど、変わらぬ美味しさが懐かしくて嬉しくなった。

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