昨日の夜勤明け散歩では、神戸モスクの近くにある「移住ミュージアム」にも寄ってみた。
ひょっとしたら、41年前、妙高高原赤倉温泉の観光ホテルで働いていた時に知り合った人の消息が掴めるかもしれないと思ったからである。
その人は職場の先輩で、当時27歳ぐらい、私より8年ほど年長だった。北海道で生まれ、10歳の時に父母と共に移民船でアルゼンチンへ渡ったという。しかし、15年間、アルゼンチンで苦労した末に母親が同地で亡くなると、父親と二人で日本へ戻ってきたそうだ。
父親の出身地は赤倉温泉の近くで、若い頃、北海道へ開拓に行き、それからさらにアルゼンチンへ渡ったのである。
結局、開拓の夢が破れて帰国すると、頼れるのは故郷の村しかなく、そこで観光ホテルの仕事を斡旋されたらしい。
私がホテルで働いていた当時、父親の方はホテルが東京で経営していた学食レストランに出向していたため、私はこの方と正月に顔を合わせる機会があったぐらいじゃないかと思う。
息子である先輩とは、9カ月近く同じ寮の部屋に住んで同じ職場で働いたから、懐かしい思い出がたくさんある。
いつもイタリア語で調子っぱずれのカンツオーネを歌う、素朴で気持ちの優しい先輩だった。
辞めてから1年経って、旅行でホテルを訪れたら、先輩もホテルを辞めた後で、ホテルの同僚と長野市内で喫茶店を開いたそうである。
もちろん、その喫茶店も訪ねてみたが、既に人手に渡っていたばかりか、財務上の揉め事で訴訟沙汰になっているという。
先輩側の弁護士に電話で問い合わせたところ、「・・・確かに好人物でしたが、日本の常識的なことが良く解っていなかったので・・・もう、うちの事務所にも来なくなって連絡もつかない状態です」といった内容の話を聞くことが出来た。
父親の方は、その頃、入院中で余命幾ばくもなかったか、既に亡くなっていたのか、私の記憶も曖昧だが、いずれにせよ、先輩の消息を知る手掛かりは得られなかったのである。
昨日、「移住ミュージアム」では、係の方がアルゼンチン渡航時の乗船名簿等を丁寧に調べてくれたものの、乗船名簿にそれらしい氏名は記載されていなかったようだ。渡航後の行方を調べる手立ては全くないらしい。
しかし、係の方から、南米への移民船が1973年まであったという話を聞いて、非常に驚かされた。1973年と言えば、私はもう中学生になっていたけれど、当時、日本の農村はそれほど豊かになっていなかったのだろう。
それから僅か10年後に、日本はバブル景気を迎えたが、その後はどうなってしまったのか・・・。日本の繁栄とは何とあっけないものだったのかと溜息が出る。
そして、先輩の父親の人生を考えてみる。貧しかった故郷の村から、開拓の夢を抱いて北海道、さらにアルゼンチンにまで出かけた末、夢破れて帰郷し、4~5年後、バブル景気を前に亡くなってしまう。
亡くなった当時の年齢は、今の私と同じくらいだったかもしれない。
私も夢を追ってトルコまで行き、20年暮らして日本へ舞い戻ってから4年になる。
間もなくポックリ死んでしまうのか、まだまだ生き永らえるのか、その辺は良く解らないが、今までの人生を振り返ってみただけでも私は遥かに楽で恵まれている。これは実に有難いことだと思う。