1991年、私はトルコのイズミルでトルコ語を学んでいた。そのトルコ語教室があったエーゲ大学には、パレスチナから来た多くの留学生が在籍していた。パレスチナでは大学へ行くことが難しかったからに違いない。
それから20年ほど過ぎた2010年頃、イスタンブール市内にある中堅財閥系の衣料品工場を訪れたところ、工場長はトルコ国籍のパレスチナ人だった。
多分、トルコへ留学して大学を卒業、そのトルコ企業に就職したのではないかと思う。40歳ぐらいに見えたから、1991年にはトルコの何処かの大学で学んでいたかもしれない。
パレスチナ人で母語のアラビア語はもちろん英語も話せたので、エジプトとバングラデシュにある同企業の生産拠点に出向していたこともあったという。
彼はエジプトとバングラデシュの印象について、「バングラデシュの人たちの『rahat(のんびり・気楽な)』には人の良さが感じられるし、仕事はちゃんとやってくれる。でも、エジプト人の『rahat』は怠けているだけだ」なんて話していた。
パレスチナで生まれ育ったアラブ人の彼にとって、エジプトの人たちは同胞と言っても良かったはずだが、既に「トルコ人」になりきっているような雰囲気だった。
また、1991年当時、エーゲ大学で知り合ったパレスチナ人の留学生は、欧米から来ているクリスチャンと議論になると、紙切れに9と書いてテーブルの上に置き、「この数字は何ですか」と訊く。相手が9と答えると、「さあ、私には6に見えますが」とやりかえすのである。
私もこの彼に、宗教について訊かれたので、「一応、仏教徒ということにしといてもらっても構いませんが、はっきり言えば無宗教です」と言うと、首を振りながら、「そんなことは有り得ない」と言い出したので、紙切れに9と書いてやったら、やられたって顔をして、「ハイ、解りました。降参します。今後は宗教の無い人達のことも考えるようにしましょう」と物分かりの良いところを見せてくれた。
この留学生も前述の工場長氏と同じように、卒業後はトルコ企業に就職して「トルコ人」になっていたかもしれない。果たして彼らは、今、どうしていることだろう?