メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

福建からイズミルへ、そして東京へ。

《2008年1月30日付け記事を修正して再録》

1991年にイズミルのエーゲ大学のトルコ語教室で学び始めた頃、ここで知り合った日本人の友人から、陳さんという中国の人の話を聞いた。

福建省出身の陳さんは、学生ビザでトルコに来て、その後、福建から夫人も呼び寄せ、イズミル市内の中華料理店でバイトしながらエーゲ大学のトルコ語教室で学んでいたものの、料理店で知り合った日本人から「日本への入国が可能となる招請状」を用意してもらうと、ほぼ私と入れ違いに日本へ旅立って行ったそうである。

この時、陳さんはチャンス到来とばかりに勢い込んで日本へ旅立ったため、奥さんはイズミルに置き去りにされてしまい、暫くの間、日本人の友人夫婦のところで世話になったというけれど、この奥さん、福建では日本語の先生をやっていたくらいで日本語が達者なものだから、友人夫婦とは日本語で話し、しきりに自分を置き去りにして行った夫への怒りをぶちまけていたという。

非常に興味深い話だったので、その頃は既に夫婦揃って東京で暮らしているという陳さんの住所連絡先を教えてもらったところ、これがなんと豊島区の大塚で、私がトルコへ渡る前に住んでいた東池袋とは目と鼻の先である。これなら正しく「入れ違い」だろう。私は何だか運命的なものを感じてしまった。

翌92年の夏に一時帰国すると、早速、陳さんと連絡を取り合い、大塚のアパートに彼を訪れることにした。陳さんは既に日本語をかなり話せるようになっていた。

何時頃だったのかちょっと覚えていないが、未だ明るい内、定刻より少し前に陳さん宅の呼び鈴を鳴らしたところ、応答がなく『はて時間を間違えたかな?』と思いながら表通りの方を窺うと、スーパーの買い物袋を重そうに抱えた小柄な男性が近づいて来るのが見えた。私は『この人が陳さんに違いない』と直感して微笑んだ。

陳さんも自宅の前にボンヤリ立っている男を見て、当然のことながら『ああこの人だな』と思ったのだろう。にこやかな笑顔で足早に歩み寄って来た。その時、どんな挨拶を交わしたのか忘れてしまったけれど、なんとなく初めて会った人とは思えない親しみを感じたことが記憶に残っている。

陳さんは私をもてなす為にわざわざ市場で大きな蟹を買ってきたのである。奥さんはパートタイムの仕事先から未だ戻っておらず、陳さんが台所に立って蟹の炒め煮を作ってくれた。

二人で料理を味わってから、トルコのことなどを語り合っている内に、渋谷でドネル・ケバブの屋台をやっているトルコの人たちについて話したところ、陳さんはこれにとても興味を示し、「久しぶりにトルコの人と会って、トルコ語で話してみたい」と言い出したので、二人して渋谷まで出掛けることになった。

陳さんは外出の支度が整ってから、「妻に書置きをしなければいけません」と断って、机の上に便箋を用意する。もちろん、行き先も告げずに奥さんを置き去りにしてはいけない。

陳さんは便箋を真っ直ぐに置くと、暫し躊躇ってから、ささっとペンを走らせた。これがまた傍で見ていて、『こ、この方は只者ではない!』と驚いてしまうような素晴らしい書きっぷり、そして見事な仕上がり、陳さんは唸るほど達筆だった。

それは、各字の配置までが考え抜かれていたのではないかと思える美しい作品になっていた。私たちだったら、そんな言付けはメモ用紙に書き散らしてお仕舞いじゃないだろうか。『やっぱり書の国の人なんだなあ』と感動してしまった。

後日、快活でいつも周りを明るくさせてしまう奥さんにも会い、この一時帰国中に陳さん夫婦とは何度か御一緒させてもらったけれど、残念なことに、それ以来会う機会がない。

イズミルで知り合った日本人の友人から伝え聞いた話によると、その後、陳さんは福建省に帰って会社を設立し、成功を収めているそうだ。