メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「韓国人の親戚」

《2008年9月30日付けの記事を修正して再録》

この「韓国人の血」という駄文に、「少なくとも明治以降、親族に韓国人がいたという話は聞いていない」と記したけれど、親族に韓国人の女性と結婚した男性はいる。父の叔母の次男の方である。

父の家は戦前、浅草で料理屋をやっていたが、父の叔母はそこの板前さんと一緒になって新たに店を出し、その店は長男の方が継ぎ数年前まで営業していたのではないかと思う。

次男のおじさんは、1966~7年頃、ニューヨークに開店した日本料理屋で板前として働くことになり、当時の羽田国際空港から飛び立った。その時、私も空港へ見送りに行ったことを微かに覚えている。

おじさんは、当初、3年ほど働いたら戻って来るという話になっていたようだが、結局、ニューヨークの店で知り合った韓国人女性と結婚して、そのままニューヨークに居ついてしまったのである。

結婚話が持ち上がった時は、親族の男たちが皆猛反対したにも拘わらず、父の叔母は「結婚するのは、お前さんたちじゃなくて、うちの子だよ」と一言で皆を黙らせたという。

父は幼い頃に実母をなくし、この叔母さんに育てられたというけれど、この話を私たちに伝えながら、叔母さんの英断を褒め称え、反対した人たちに対して、「どんな大学を出ていようと、朝鮮人と言って人を差別するような奴は大馬鹿者だ」と得意そうに話していた。

父は碁会所に出入りしながら在日の人たちとも手合わせしていたと言い、「だから俺にはそういうつまらない差別感などない」なんて偉そうにしていたものの、なにしろ倅の私と同様、厳しい世間と格闘していなかったから、無責任に何でも言えただろうし、ええ格好しいの進歩派ぶっていただけのことかもしれない。

しかし、あの叔母さんには、本当につまらない差別感など微塵もなかっただろう。粋な雰囲気のある、偽りなく格好良い叔母さんだった。いつも和服を着こなし、煙草盆を前にしてキセルを燻らせる姿は今でも印象に残っている。

かつて、叔母さんの周囲にも朝鮮の人たちがいたのかどうか良く解らないが、89年に父の葬儀があった時、父の直ぐ下の妹にあたる叔母さんは、以下のような話を私に語った。

「今でも朝鮮の人たちは相変わらず被害妄想なのかい? いやね、戦前、半島から来た朝鮮の人と浅草を歩いていたら、乞食を見る度に『あれは朝鮮人ですか?』って訊くんだよ」。

この叔母さんが、その朝鮮の人とどういう経緯で知り合って、どのくらいの付き合いだったのか、詳しく訊いて置けば良かったけれど、他の話題に直ぐ移ってしまい、それ以上、聞くことが出来なかったのである。

しかし、ひょっとすると、当時、叔母さんたちの周囲には懇意にしている朝鮮の友人がいたのかもしれない。

(韓国の人たちの被害妄想については以下の「日本とトルコの友好」という駄文にも記している)

さて、ニューヨークで韓国の女性と結婚したおじさんだが、私は50余年前に空港で見送って以来顔を合わせる機会のないこのおじさんと、1998年頃に一度だけ電話で話したことがある。

当時、米国で中華料理屋を経営していた在韓華僑の友人が、和食の店を出そうと思い立ち、私もこの件について相談されたため、おじさんから何かアドバイスを得られないだろうかと思って、母に連絡先を尋ねたところ、わざわざ親戚に問い合わせてニューヨークの電話番号を聞き出し、次のように説明してくれた。

「彼のところは子供もいなくて奥さんと二人暮らしだというから、男の声が出ればおじさんで、女の声ならば奥さんだろうね」

「二人は普段何語で話しているんですか?」

「さあ、多分、英語が共通語になっているんじゃないのかい?」

おじさんが日本に里帰りした話は何度か聞いたけれど、奥さんを伴って来たことはなかったらしい。母もその女性については何も知らないと話していた。

早速、その番号に電話してみると、女性が綺麗な英語で「ハロー・・・・」と電話口に出たので、「ヨボセヨ」と韓国語で応じ、「Iさんの親戚にあたる者ですが、Iさんいらっしゃいますか?」と、その頃はまだまだ流暢だった韓国語で続けた。

すると、女性は一瞬息を飲んだように黙ってしまい、それからおもむろに私の素性を繰り返し確かめた後、「貴方は日本語を話すことが出来ますか? 主人は日本語しか話せませんが、それでも大丈夫ですか?」と韓国語で訊いたのである。

私が「もちろんです。私は日本人ですから」と答えたら、暫くして「ああ、もしもし・・」とおじさんが電話口に出てきた。

おじさんもかなり驚いたのだろう。「いや、家内が電話に出て、韓国語で話し始めたものだから、私にかかって来たものではないと思っていたら、私に電話だと言い出すから何事かと思ってしまいましたよ」。

奥さんは、おじさんと最初に知り合った頃から流暢に日本語を話していたという。

しかし、この方は韓国から日本を経ずに米国へ渡ったようであるし、いったいどういう方なのか溢れんばかり興味が湧いて来た。そして、この一件の発端となった在韓華僑の友人を訪ねて米国へ行き、皆で一緒に会ってみなければならないと思った。

ところが、再会を果たす前、2002年に友人は米国で亡くなってしまい、その後も私の生活は経済的に苦しい状況が続いた。今でも米国へ行くなんてとても叶わない夢である。トルコへ帰ることさえ出来ない有様なのだ。

あれから、既に20年以上過ぎてしまったとは信じられない気持ちで茫然としている。ニューヨークの御夫婦は今でも御変わりなくいらっしゃるだろうか?

あんなに驚かせてしまったのだから、なんとか一度お目にかからなければと思いつつ、月日が経つのは早いものだと溜息が出るばかりである。

merhaba-ajansi.hatenablog.com