メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

華僑友人の自死

2002年に米国で亡くなった華僑の友人には、1983年頃、高校同期の友人が引き合わせてくれた。当時、私たちは23歳、華僑の友人は3つほど年長だったと思う。しかし、私にとって友人付き合いと言えるようなものは、韓国への語学留学から帰国した1989年に始まる僅か1年ぐらいの間である。1990年に友人は日本を離れて米国へ移住してしまった。

華僑として韓国で生まれ育った友人は、中国語・韓国語・日本語を自在に話した。唯一学んだ韓国語で悪戦苦闘していた私から見たら、まるで神のように思えた。そればかりでなく、様々な人生経験によって得られた見識には厚みが感じられ、3つほどの年齢差を通り越して、私には大兄のような存在と言えた。

短い期間だったが、多岐にわたって色々なことを教えてもらった。洞察力に優れた彼と話していると、時々私は心の内を見透かされているように感じた。

その大兄が米国へ去ってしまったのは無念でならなかったけれど、もちろん、またいつか会えるだろうと思っていた。

友人が米国で亡くなったのは、2003年にトルコから一時帰国した際、高校同期の友人から知らされた。自殺だったと言う。

まずは衝撃で頭が混乱し、それが収まると、私は何だか裏切られたように感じた。『あなたは私たちに色んなことを教えてくれた。その最後の教えがこれだと言うのか?』と思ったのである。

その年、ソウルで友人の家族と会った。まだ御存命だったお父さんは「死んじゃあ駄目だ」と日本語で言った。弟の明仁は「兄はそんなことをする人じゃない」と暗に他殺説を仄めかした。私もそれから長い間、『そんなことをする人じゃなかったはずだ!』と思い続けていた。

それがいつ頃からだろう? 多分、2013年に高校同期の友人と韓国へ墓参りに行った頃からではないかと思うが、『しょうがない。あれも彼の決断だったのだ』と諦めがつくようになった。かつて私は、様々な局面で彼がその決断力を発揮するのを見ていた。

今は、さらに進んでその決断に敬意を表したいとさえ思えるようになった。そこへ至る心境は、到底私如きに解るものではない。私があれこれ考えても全く無駄である。私ばかりじゃなくて誰にも解らないだろう。

そして、これは友人の自死に限らないはずだ。