メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

西欧が望んでいるのは「エルドアンのいないトルコ」?

オランダの事件は、チャヴシュオウル外相やサヤン・カヤ家族社会政策相が、憲法改正国民投票を前にして、オランダ在住のトルコ国民へ支持を呼びかけるため、現地入りしようとしたところ、オランダの当局がこれを妨げたのが発端だった。
ドイツやオランダを始めとする西欧の各地には、トルコ国民が多数居住しており、以前から、トルコで選挙が行われる度に、与野党の代表が現地入りして、支持を呼びかけていた。
支持集会は、現地の体育館やホールを貸し切って開催されるので、トルコ人以外の住民が迷惑するような状況もなかったのではないかと思う。
また、もともと戦後ドイツの労働力不足を補うため、トルコの人たちに来てもらったのが移住の始まりで、トルコ人が勝手に押しかけて行ったわけじゃないから、トルコの国民として選挙権等の権利が保証されたのは、当然の成り行きだったに違いない。
ところが、今回の国民投票では、まずドイツ各地で予定されていた与党AKPの集会が、ホールの使用許可が下りない等の理由によって開催できなくなり、これを不当な干渉と見做した野党CHPのデニズ・バイカル氏は、何ら障害のなかったCHPの集会を自らキャンセルして、ドイツに抗議した。
AKPも、自党の集会が認められないのは、国民投票憲法改正が否決されるように望んだ西欧の内政干渉であるとして、さらに激しい言葉で非難を繰り返し、トルコと西欧の間の緊張は一気に高まってしまった。
AKPの支持者らによれば、西欧は、憲法改正で「強いエルドアン政権」が生まれるのを妨害しようとしているのだという。
この説を鵜呑みにしてはいけないけれど、西欧の世論が、エルドアン大統領を嫌い、「エルドアンのいないトルコ」を願っているのは確かであるような気もする。
しかし、エルドアンがいなくなったとして、トルコの社会は、西欧が望むように変わるだろうか? 
トルコでは、トルコの社会が、この半世紀の間に大きく変化を遂げ、それに合わせて政治も変わらざるを得なかったのだと論じられている。
半世紀前と現在を比較すると、例えば、都市と農村の人口比率は完全にひっくり返ってしまったらしい。農民が大半を占めていた時代の政治は、都市化された今のトルコに、もはや通用しないそうである。
2014年の1月、ニュース専門局の番組に出演したジャン・パケル氏は、トルコの社会が経て来た変化を次のように説明していた。
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・・・共和国発足当時、トルコ人の殆どは農民だったため、共和国の創業者らは、仕事が出来る西欧志向型の階層を作り出す必要があった。
そして、創造された“白いトルコ人”を85年近くに亘って守ってきた。関税により、また彼らが製造した粗悪品を国家が買い上げ、競合相手を妨害することにより守ってきた。
これが、80年代、オザル政権の誕生によって揺らぎ始め、国家の庇護に依らず自力で勃興した中産階級が姿を現し始める。
この新しい中産階級が支持して政権に押し上げたのがAKPであり、“白いトルコ人”は、彼らにその座を奪われつつある・・・・。
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社会主義的な国家政策の下で外貨の所有さえ禁じられていたトルコの社会が、大きく変わり始めたのは、オザル政権の思い切った改革によるものだったかもしれないが、これにも徐々に進んでいた都市化であるとか、国際情勢の変化は影響していたのだろう。
パケル氏の言に従うならば、エルドアン大統領が強権で社会を変革させながら、民衆を引っ張っているのではなく、社会の変化の中から現れた新しい中産階級が、エルドアンを「強い大統領」へ押し上げようとしているのである。
かつて、地方の農村で暮らしていた人々が、産業化と共に労働者として都市へ移住し、その子供たちは大学へ進んで、産業の担い手となった。私も26年前にトルコへ来て以来、こういった家族の例をいくつも見て来ている。
彼らの多くは、保守的で信仰に篤い人たちだから、イスラム的な風俗も移住した都市へ持ち込んだ。近年、イスタンブールイスラム色が濃くなったように感じられるのは、この人口移動の結果に他ならない。
しかし、移住後に生まれた新しい世代は、両親から受け継いだ信仰を維持しながら、あか抜けた都会の若者になっている場合が多い。中には、信仰の在り方を自分なりに変えてしまったり、信仰に重きを置かなくなった若者たちもいる。
もともと身分階級が明確になっていなかったトルコの社会は、また次の新しい中産階級を出現させて、世代交代が進み、さらにダイナミックな発展を遂げるかもしれない。
エルドアンのいないトルコ」が実現されたとして、トルコの社会に、いったいどういう影響を与えられると言うのだろうか?