メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

日本人は気楽で幸せだ・続

自分で言うのはなんだけれど、私も割りと正直なほうじゃないかと思う。でも、私の場合は、本当に厳しい現実に直面することもなく、甘ったれた人生を送って来たから、勇気を出して“正義の嘘”をつく必要もなかっただけに違いない。

嘘ついてまで守らなければならない家庭もなかった。度胸がないから際どい嘘はつきたくてもつけない。恋しい恋しいと言いながら女性の一人口説くことも出来ない。

まさしく役立たずで、果たしてわざわざ生きている価値があるのかと悩んでしまう。

こんな私は論外だが、やはり厳しい文明の衝突といった歴史を経ていない日本は、ちょっと塩気が足りていなかったかもしれない。歴史上の人物にも必要以上に正直な人が多いような気がする。

例えば親鸞聖人。歎異抄では以下のように、「念仏唱えると浄土に行けるというのは、法然上人がそう仰ったから信じているだけです」なんて正直に話してしまっている。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」。

イスラム教でもキリスト教でも、人が信仰を持つときは全て同様の過程を経ているはずだ。信徒が「神の声を聴いて信じるに至った」などと言おうものなら、宗教上の罪になってしまう。

正直に言えば、「両親がそう言ったから・・」ぐらいのところだが、そこをぐっと堪えて「聖典は神の言葉だから・・」と言い切っているのではないだろうか。

親鸞聖人も、念仏にすがろうと訪ねて来た門徒たちへ、「私は如来様のお告げを聴いたのです」と嘘ついてあげたほうが、よっぽど親切だったかもしれない。

「よきひとの仰せをかぶりて・・」と言うのは、お見合いで結婚した妻へ、「親の取り決めに従ったまでです」なんて味気ないこと言うのに似ているような気がする。親鸞聖人も恋愛は下手だったりして・・・。

クズルック村の工場で、コンピューターのエンジニアだったアブドゥルラーさんは、だぶだぶのズボンをはいて顎鬚をたくわえ、敬虔なムスリムそのものであり、奥さんも黒い布を頭からすっぽり被って顔すら良く見えなかったけれど、アブドゥルラーさんは、「妻を一目見た時から恋してしまった」などと澄ました顔で惚気ていた。

アブドゥルラーさんがどういう状況で奥さんと知り合ったのか解らないが、多分、お見合いのようなものではなかったのか。それなら、「親の取り決めに従ったまでです」なんて言うより、たとえ嘘でも、こちらのほうが洒落ているかもしれない。

彼らの宗教は、「正直になれ」と教えているんじゃなくて、必要な時に嘘をつく勇気を与えているんじゃないかと思ってしまう。

論語にも、「言必ず信、行必ず果、矼矼然として小人なるかな」とあって、孔子も正直を大した美徳(政治家としての)とは認めていなかったようである。

我々日本人は、正直を旨としているものの、戦後はアメリカに守られ、世界中の戦争から利益を得て繁栄を貪りながら、虚構の平和に満足してきた。とても調子の良い正直だったような気がする。

しかし、日本人も幕末のような国難に際しては、権謀術数の限りを尽くして頑張ったのではないか。その後、ちょっとまともに行き過ぎたきらいはあるが、“戦う意志”を充分に見せている。

戦後になって、私のような自堕落が増えてしまったかもしれないけれど、意志があって正直な人もたくさんいる。それに、虚構の平和とは言え、あの平和の中で育ったサブカルチャーはなかなか侮れない。微笑で全てを飲み込んでしまうような“平和力”。このパワーを否定する手はないと思う。

「親の取り決めに従ったまでです」なんて味気ないと言ったけれど、映画「彼岸花」の中で、あの言葉を聞いた妻は、さりげない夫の愛を受け止めていただろう。

野暮ったいが、そういう慎ましさは私たちの文化だから、それで良いんじゃないか。親鸞聖人も、あの正直さが有難いのです。