メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

宗教論議

トルコの人たちと親しく付き合って行く過程でどうにも避けられないのが宗教論議。しかし、相手がかなり熱心なムスリムであっても、教養のあるムスリムならば、そんなに恐れる必要はない。こちらの話もちゃんと聞いてくれる。
イズミルのエーゲ大学で、パレスチナ人の留学生は、欧米から来ているクリスチャンと議論になると、紙切れに9と書いてテーブルの上に置き、「この数字は何ですか」と訊く。相手が9と答えると、「さあ、私には6に見えますが」とやりかえすのである。
私もこの彼に、宗教について訊かれたので、「一応、仏教徒ということにしといてもらっても構いませんが、はっきり言えば無宗教です」と言うと、首を振りながら、「そんなことは有り得ない」と言い出したので、紙切れに9と書いてやったら、やられたって顔をして、「ハイ、解りました。降参します。今後は宗教の無い人達のことも考えるようにしましょう」と物分かりの良いところを見せてくれた。
これで引っ込んでくれない人達は、まず神の存在を問い質して来るので、私はいつも次のように答えている。
「神がいるのかどうかは良く解りません」
「それでは不安になりませんか?」
「そんなことはありません。私は自動車のメカニズムなんて良く解っていませんが、車は運転できます。神の存在は知らなくても、とりあえず生きてますから、それで充分です」
「自動車は人の作り出したもので、神とは次元が違います。神のことを知りたいとは思いませんか」
「だから、その人間が作り出した自動車のメカニズムさえ解らぬほど愚かな私が、どうやって、そんな高い次元のことを知ったりできるんですか?」
こういう人を馬鹿にしたようなことを言ったら、怒られるのではないかと思うのだが、信仰を持っている人達は、これで馬鹿にされたとは感じないらしい。この愚かな人間を救わなければと、ますます親切に神の存在を説明しようとする。
94年、イスタンブールのあるモスクの裏庭で、敬虔な学生たちと話していた時のことである。

ひとりの学生が、机を指して、「ここに机がありますね。これも神が人間に授けてくれたものです。人間はその御かげで便利な生活ができます」と切り出した。

 このように、「ここに机がありますね」で始まる話は他でも聞いたことがある。その時は、
「あなた、この机を愛せ、キスをしろ、と命令されたら、どう思います。この机を壊したくなってしまうでしょう。今、イランとかサウジ・アラビアでやっているのは、正にこれなんですね。あれではイスラムのために良くありません」と続いた。
フェトフッラー・ギュレン師の教団に属する青年だった。髭をきれいに剃り、ジーパンにポロシャツという、こざっぱりした青年の身なりが示すように、現代的なイスラムと云われているギュレン師の教団は、優秀な学生達を養成して世界各国に派遣し、イスラムにおけるミッション活動を繰り広げている。

日本にも彼らの運営するトルコ語学校がある。
あるいは、モスク裏庭の学生達も同教団の信徒で、ミッション活動のマニュアルみたいなものがあり、どこにでもある机から、話が始められるようになっているのかも知れない。一度彼らと、机のない所で話してみたいものだ。
さて、モスク裏庭の話であるが、私は「机は便利」の説に対して、
「でも、今地震が来て、この机が頭の上に落ちて来たら、どうなります。この机は私を殺してしまうかも知れませんよ」
「いや、ですから神は人間に知恵を授けて下さったのではありませんか。人間は知恵を使ってこの机を簡単に転がぬよう頑丈に作ることができます」
「人間の浅知恵で地震に対抗できるとは思えませんね。だいいちビルが潰れてしまえば、それまでじゃないですか?」
「あなた、テクノロジーは日夜進歩しているんですよ。地震に耐えられるようなビルを作れば良いでしょう?」
「少なくとも我々にはそんなテクノロジーなんかありませんよ」
「随分悲しいことを言いますね。あなた方にも神から授かった知恵があるはずなんですが」
話がここに至ると、それまで黙って聞いていたもう一人の学生が進み出て、
「おい、ちょっとまてよ。この人は日本から来たんじゃないのかい。日本の建物はトルコより遥かに耐震性に優れているんだぜ。この話はもう止めにした方が良いと思うな」
これには、それまで一生懸命話していた学生も大笑いで、浅知恵の哀れな日本人の説得を諦めてくれた。

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