メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

インシャラー

トルコでは信仰の度合いにより挨拶の言い方もまたそれぞれで、熱心なムスリムであれば必ずイスラム式に「セーラムアレイクム」と言うが、これを信仰の度合いが低い人に対して使うと、「そんなアラビア語の挨拶をどこで習ったのですか?」なんて言われてしまう。

しかし、「インシャラー」(神がお望みになるならば)というアラビア語の場合、熱心なムスリムは勿論のこと、不信心な人達からも広く使われていて、「明日、うちへ来てくれますか?」に対する答えが「インシャラー、行きましょう」であれば、その翌日、まずは来ないと思って間違いない。
敬虔なマサルさんは、当然のことながら「セーラムアレイクム」と挨拶し、何かにつけて「インシャラー」を口にするが、彼によれば「インシャラー」とは本来、「人間として出来る限りのことをやり尽くした後、神の思し召しに従う」という意味で使うべきなのだそうである。

それなら、「インシャラー」は「人事を尽くして天命を待つ」と訳せるかも知れない。
実際、イスラム教は、「信ずる者は救われる」キリスト教や「南無阿弥陀仏を唱える者は成仏間違いなし」という浄土門の教えに比べて、遥かに人間の意志を重く見ているような気がする。

ムスリムは戒律に従い善行を積むことにより天国へ近づけるのであって、信じるだけでは救われない。
しかし、イスラムの伝承には、飲んだくれで戒律を守らなかったムスリムも砂漠で弱りきっていた犬に水を与えて介抱してあげたというたったひとつの善行が報われて天国へ行き、逆に戒律を良く守っていたムスリムが僅かな悪行のため地獄に落ちてしまったというような話もある。
ムスリムは、戒律を守っているからといって必ず天国へ行けると思ってはならず、また如何に悪行を重ねたとしても神の慈悲を信じて希望を捨ててはならないと説かれているのである。

これならば何か救われるものも感じるが、いずれにせよ自力で善行を積むことが必要である。どう考えても、私の如き「罪悪深重煩悩具足の凡夫」の為の宗教ではない。
同じくムスリムの人達にとっても、「罪悪深重煩悩具足の凡夫」の為の教え「悪人正機」の説などはなかなか理解し難いようだ。

以前、それほど熱心とは言えないまでもある程度は信仰のあるムスリムトルコ人の友人に、「歎異抄」に書かれていることをもとにしながら、「悪人正機」や「他力本願」について説明したところ、
「あなたの言いたいことは解りましたが、神への恐れがなくても良いものなんでしょうか? あなたは悪行を働くような人ではないでしょう。私もそうです。しかし、この世には放っておけば悪事をしでかす輩が沢山いるのではありませんか?」
これには本当にがっかりした。正にこのような考え方を戒める為、「悪人正機」は説かれているように思っていたからである。
ところで、クリスチャンの人達は「歎異抄」の内容を高く評価していて、「悪人正機」についても、「福音」で明らかにされている「罪人救済」との類似を指摘するそうだ。

イスタンブールに住む韓国人宣教師の友人などは、「歎異抄」にまつわる話を聞いて、「その話を有り難いと思っていらっしゃるのなら、福音の有り難さもお解りになるはずです。是非一度、福音を読んでみて下さい」と早速営業に乗り出して来た。
先日、この友人宅を訪ねた際、最近になってムスリムからクリスチャンへ改宗したという若い女性が来ていたので、また同様のことを話してみると、
「そういうのは、何かイスラムみたいで嫌ですね。やはり人間は自分の意志で道を切り開かなければなりません」
これには宣教師の友人も驚いたのではないかと思う。
トルコで、イスラムが近代化の妨げであると言う人達は、「神に依存して、自分で可能性を高めて行こうとしなかったから、ムスリムは遅れてしまったのだ」と考えているようである。

そうなると、いち早く近代化を達成した日本に「他力本願」なんて信仰があるというのでは、どうにも釈然としないに違いない。
97年に出版された、フュリエト紙のエルダル・ギュベンという記者による「猿も木から落ちる」と題された日本見聞記をちょっと読んで見たところ、表題にもなっている日本の諺について書かれたくだりは、これがなかなか荒唐無稽な内容だった。
ギュベン氏の見解によれば、この諺ぐらい日本人の特性を巧く言い表したものはないという。

まず彼は、「猿が木から落ちると思いますか」と読者に問いかけた後、「そんなことは不可能」と勝手に断定。

それから、「この不可能であることも可能になると考えているのが日本人。彼らは何事に関しても不可能であるとは考えていません」と続ける。

どう考えるとこういう解釈を導き出すことが出来るのか見当もつかない。トルコ人に不可能ということはないのだろうか。

でも、この彼に日本での「他力本願」の信仰について理解してもらうのは不可能であるような気もする。なにしろ日本人は自分の意志力を頼んで不可能も可能に変えてしまうような人達なのだから。
日本人は不可能なことや自然の力に対して極めて謙虚であり、自然は神から人間に与えられたものであると考えるクリスチャンやムスリムとは、その辺が違うのだと私は思っていた。

しかし、自然を破壊し続ける日本の現況を見るならば、そんなことを思うほうがよっぽど荒唐無稽なのであって、ギュベン氏のように考えてもそれほど不思議なことではないのかも知れない。

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