メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

急遽、鹿児島へ。

昨日の午後、姫路の銭湯で湯から上がって涼んでいたところ、母が入所している鹿児島の施設から連絡があった。脳梗塞と思われる状態で意識がなくなり、一時的に呼吸も停止したという。

そのまま姫路の駅から新幹線に乗っても良かったが、さすがにサンダル履きでは拙いと思い、一旦、家に帰って出直した。そのため、屋久島から駆け付けた姉より大分遅れて、夜の9時半にようやく施設に着いた。

新幹線の車中、間に合わなかったら出直した所為だなと悔やみながら、「東京物語」で一人遅れた三男坊に擬えたりしていたが、熊本の辺りで姉から「容態は安定している」というメッセージが入って安堵した。

施設はコロナ以来、昨日のような状況がなければ面会を認めていないくらいなので、入る際にはPCR検査を受け、防護服のようなものを着用しなければならなかった。

施設としては、コロナ患者が出ると運営も難しくなってしまうだろうから致し方ないことなのかもしれない。

鹿児島で一泊して、今日の昼、もう一度施設へ赴いたが、今度は外から窓越しの面会となった。

意識が戻っていないうえ、午前中に再び呼吸が不安定になったりしたので、また急変する可能性もあると言われたけれど、私たちが面会した時点では、顔色も良く何だか微睡んでいるだけのように見えた。

しかし、もうそれほど長くは持たないだろう。母は今年の5月に91歳の誕生日を迎えている。認知症のため、看護師さんとも意思の疎通が出来なくなってから既に2年が過ぎているというのに、とても生命力の強い人なのだと思う。


 

李朝時代の冷麺は贅沢な冬の食べ物?/貧富格差をそれほど気にしていない韓国の人たち

今日もうだるように暑かったので、配送の仕事を終えて帰宅途中、思わずコンビニに寄って「盛岡風冷麺」を買ってきてしまった。

6月に長田まで出かけて「平壌冷麺」を堪能して以来、コンビニの冷麺は、これでもう5回目ぐらいじゃないかと思う。

長田の「平壌冷麺」は、SNSの書き込みで見てからネットで検索したところ、以下のような記事が出て来た。

美味しそうな冷麺の話題もさることながら、記事を掲載しているのが「朝鮮新報」であるところに俄然興味を引かれた。

40年ほど前、東京の飯田橋駅近くの焼肉屋で晩飯を食べながら、隣席の朝鮮新報社の人たちが朝鮮語で会話しているのに耳を傾けたりしていた。それから、4~5年の後、私は韓国で韓国語を学ぶことになる。

そんな思い出もあり、朝鮮新報の記事を読んだら、急に冷麺が食べたくなって長田まで出かけたのである。

久しぶりに食べた本格的な冷麺はとても美味しかったけれど、冷麺食べにそうそう長田までは行ってられない。

それで、冷麺が恋しくなると、コンビニの冷麺で我慢することにした。コンビニの冷麺も暑い日に仕事が終わってから食べると結構美味い。やっぱり夏は冷麺だ。

ところが、調べて見ると、李氏朝鮮の時代、冷麺は冬の食べ物だったという。寒い冬の日に、暖かいオンドルの部屋で冷麺を食べていたらしい。何だか随分贅沢な話である。

李朝時代、一般庶民の家にオンドルがどのくらい普及していたのか解らないが、冷麺を食べたくなるくらい部屋を暖められたのは富裕層に限られていただろう。冷麺は富裕な人たちが食べる贅沢な料理だったのかもしれない。

考えてみると、焼肉もかなり贅沢な料理である。焼肉に限らず、韓国の料理は食材も調理法も豊かで実に味わい深い。やはり、李朝時代の宮廷料理が元になっているからではないかと思う。

それに比べたら、江戸時代の将軍たちの食事は実に質素だった。宮廷料理と言えるほどの料理ではなかったようである。今でも、政治家がちょっと高級な料理屋で会食すると大騒ぎになるくらいで、日本の社会は平等志向が非常に強い。これは結構歴史的なものであるかもしれない。

一方、北朝鮮はもちろん、韓国の貧富格差も日本より遥かに大きいことが指摘されているけれど、これも李朝時代以来のものだろうか? 

そういった歴史的な背景もある所為か、韓国の人たちは、我々日本人が思うほど貧富格差を気にしていないようである。

かつて、貧富格差の少ない日本は、労使間の協調も巧く行き、ブルーカラーの高い勤労意欲に支えられて高品質の生産を可能にしたと言われていた。私もそれを日本の美徳であると誇りに思っていた。

しかし、これからの時代は、格差を気にすることなく有能な技術者に高額の給与を支払える韓国のような社会のほうが有利ではないかと論じられたりしている。果たしてどうなるのだろう? 美味しい冷麺の話から、なんだか暗い話になってしまったけれど・・・。




  

 

コロナの陰謀論/中国は有りもしないコロナ危機を口実に上海を封鎖した?

コロナの発生自体に陰謀があったというのは良くある「陰謀論」に過ぎないと思うが、それを機会にして、米国を中心とする勢力が危機感を必要以上に煽っていたのは確かじゃないだろうか?

その勢力は、今年に入ってからも諦めずにフランス等で規制を強化させようとしたけれど、国民の反対が激しくて巧く行かなかったようだ。これは米国でも変わらないが、日本では思い通りに行っているということなのかもしれない。

マスクなども危機感を煽るための装置として使われたような気がする。「マスクは非常事態を印象付けるシンボルとして導入された」なんて話も聞かれる。

何のために危機感を煽ったのかと言えば、各国間の交流を妨げることで世界の貿易量を減らし、中国の経済に打撃を与えようとしたのだと論じられたりしていた。

貿易量が減少すれば欧米も損害を被るものの、それ以上に中国を苦しめることが出来るという不当廉売のような戦略だったと言うのである。

ところが、ウクライナ侵攻でロシアに対して経済制裁を課して以来、貿易の停滞は却って欧米に打撃を与えているという。中国がコロナ対策として上海を封鎖すると、それはさらに深刻なものになっているらしい。

そのため、トルコの識者の中には、ロシアのウクライナ侵攻以降の状況を見た中国が、有りもしないコロナ危機を口実にして、戦略的に上海を封鎖したのではないかと論じる人もいる。それによって中国が被る損害はもっと大きいかもしれないが、富裕層に与えられる打撃は共産党国家にとって、それほど不都合なことでもないそうだ。

確かに、国民の不満を押さえつけるだけの強い権力を共産党国家は持っているような気もする。我慢比べになったら、先に音を上げるのは欧米の方であるかもしれない。

実際、ロシアへ課した経済制裁により、西欧各国は非常に困難な状況に陥っているという。「制裁によってプーチン政権が崩壊」などと喧伝されていたが、英国を始めとして各国で首相の退陣といった状況が生じている。

民主的な選挙を行っている国々は、国民に我慢を強要することなど出来ないのである。

もちろん、中国経済に打撃を与える戦略を考えた人たちは、共産党国家の絶大な権力を承知していたはずだが、それを上回る不満が国民の間に広まることを期待していたに違いない。

しかし、貧富格差の激しい中国では、大多数の国民の不満が、もともと都市部の富裕層に向けられていたようにも思える。ひょっとすると、貧しい農村の人たちは、封鎖された上海に「ざまあみろ」と感じていたのではないだろうか?。

また、近年になって、共産党国家が進めて来た「愛国教育」の成果が現れてきているのを欧米に限らず私たちも見誤っていたかもしれない。

 

 

ウクライナの穀物を安全に輸出するための協定

先週(7月22日)、イスタンブールで「ウクライナ穀物を安全に輸出するための協定」が調印された。昨日(7月27日)は、この協定の履行を監督するコーディネーションセンターがオープンしたという。

センターはイスタンブールにある国防大学のキャンパス内に開設され、トルコ・ロシア・ウクライナ・国連から各5人の代表者が業務に当たるそうだ。

調印の翌日、ロシア軍がオデッサを攻撃、標的は協定に反しない軍事施設であると表明したものの、ウクライナ側は非軍事的な港湾施設と主張して早くも協定の先行きに暗雲が垂れ込めたかに見えた。しかし、今のところ、協定の実施に向けて双方が歩み出したようである。

なにしろ戦争の真っ只中であり、双方の主張が大きく食い違っているのは当然かもしれない。情報戦・心理戦といった側面もあるだろう。いずれの発表も鵜呑みにするわけにはいかないと思う。

ところで、代表者の多くは軍関係者と言われているけれど、ロシアとウクライナの軍人たちが業務以外でどんな会話を交わすのか気になる。また、それは何語の会話になるのだろう?

これは些末な事柄かもしれないが、今回の穀物輸出に関わる過程で、なんだか腑に落ちないのは、ゼレンスキー大統領が前面に現れていなかったように思えるところだ。

調印を前にして、エルドアン大統領はテヘランプーチン大統領と会談している。8月5日にはロシアのソチを訪れるという。ところが、以前、何度か報道されたゼレンスキー大統領との電話会談といったものが、最近は殆ど伝えられていなかったような気がする。(訂正:当初、一部のトルコメディアがエルドアン大統領の訪問先はモスクワと報じていたため、そう記しましたが、どうやらソチであるようです。)

ゼレンスキー大統領については、検事総長らの解任が大きく報じられ、政権内に対立が見られるとか、さらには軍部のクーデターまで予想する説も飛び交っている。

穀物輸出の交渉でも、前面に出ていたのは軍人たちだった。もっとも、航路の安全が重要な課題であるため、トルコ側もロシア側も軍が大きな役割を果たしているけれど、エルドアン大統領とプーチン大統領も関与しているのは明らかである。ゼレンスキー大統領はどのように関与していたのだろう?

いずれにせよ、この協定が実際に実を結ぶのかどうかは、ウクライナから積み込まれた穀物が無事にイスタンブールを経由して輸出先へ至った時点で明らかになる。それを祈りながら今後に注目したい。



トルコ軍のキプロス侵攻(1974年)

《2020年3月8日付け記事を省略修正して再録》

昨日(7月20日)は、1974年にトルコ軍がキプロスへの侵攻を開始した日だったそうである。

「トルコのナショナリズムが最も高揚する日の一つ」と言っても良いのではないかと思う。

以下のYouTubeの動画では、そのキプロス侵攻作戦へ至る過程が、1974年当時、連立政権の副首相だった故ネジメッティン・エルバカン氏によって語られている(1996年頃?)。

www.youtube.com

この動画を観て、私は非常に意外な気がした。動画の撮影が1996年であるとすれば、その翌年、当時は首相だったエルバカン氏が軍部によって政権から引きずり降ろされてしまったように、軍部とイスラム主義者のエルバカン氏は、かねてより犬猿の仲であるという思い込みがあったからだ。

動画の中で、エルバカン氏はキプロス侵攻作戦における軍部との協調を得々と語っている。

それによれば、作戦に消極的だった故エジェビット首相を差し置き、エルバカン氏が軍参謀長官の要請を受けて作戦承認への道筋をつけたかのようである。

エジェビット首相は、作戦が議題に上がると、キプロスの後ろ盾となっていた英国の意向を確認しなければならないとして、英国へ旅立ったが、その首相を見送った空港で参謀長官はエルバカン氏に「一刻の猶予もならない」として作戦承認への決断を迫ったというのである。

結局、3日後に帰国するエジェビット首相と共和人民党(CHP)の承認は、その時になって取り付けることにして、エルバカン氏と参謀長官の独断専行により作戦準備に踏み切ったため、承認が得られた段階で、軍は既に出撃の準備を整えていたそうだ。

エルバカン氏は聴衆に向かって、作戦承認に至るまでの緊迫した状況を語ってから、「(承認された)その日は金曜日だったので、作戦の成功を祈るため、我々はハジュバイラム・モスクの金曜礼拝に参列したが、人民党の連中は何処か他のモスクで礼拝したんでしょう」と付け加えて、聴衆の笑いを誘っている。

(エジェビット首相を始め人民党の面々の多くが信仰に熱心ではないことは良く知られていた。エジェビット首相は新聞のインタビューに答えて、「断食など一度もしたことはない」と明らかにしている。)

壇上のエルバカン氏の隣には、1960年の軍事クーデターの立役者であり、当時、民族主義者行動党(MHP)を率いていた故アルパスラン・テュルケシュ氏(1997年死去)が、やはり笑みを浮かべながら座っており、聴衆の中には、エルバカン氏の愛弟子だったエルドアン現大統領の姿も見られる。

しかし、エルバカン氏も語りの中で明らかにしているように、エルバカン氏へ作戦承認の決断を促したのは参謀長官であり、作戦の立案と遂行は軍の主導によって実現されたようである。

軍が圧倒的な力を持っていたとされる当時と現在では、異なる状況があるのだろうけれど、やはり今でも軍事作戦は、軍の主導に基づいているような気がする。軍と政府のバランスはかなり良くなっているかもしれないが・・・。

 


 

 

 

統一教会の問題/ギュレン教団尊師の死亡説

安倍元首相の暗殺事件は「気が変になった男の犯行」という見方が有力で、今のところ「政治的なテロ」を疑わせる要素は見当たらないそうである。

気が変になった男の筋違いな逆恨みで暗殺されてしまった安倍氏は実に無念だっただろう。

しかし、犯人の逆恨み発言で注目されている「統一教会」の問題が明らかになるのは悪くないと思う。

30年ぐらい前、娘さんが統一教会の信者になってしまった在日韓国人の知人から相談を持ち掛けられた友人は、私にも「どうしたら良いか?」と問い合わせてきた。

私は体操の山崎選手の例を挙げ、「いくら説得しても無理だから自宅の何処かに軟禁するよりない」と申し上げたけれど、くだんの在日の方は「娘にそんな酷いことはできない」と言い、結局、娘さんは合同結婚式で韓国へ嫁いでしまったという。相手は身体に障害のある男性だったらしい。

確かなことは解らないが、統一教会在日韓国人をターゲットに、困難な条件のある韓国人男性へ嫁がせるという選択を行っていたのではないかと言われている。日本人であれば日本の領事館に保護を求めることもできるが、在日の場合はそれも難しい。そして、財力のある親から援助を引き出そうとする。

統一教会には、霊感商法以外にも様々な問題があったようだ。そもそも、合同結婚式などというのは、どう考えても異常な事態である。

その結婚式は文鮮明夫妻の下で執り行われ、これによって結婚した信者らは、あたかも文鮮明夫妻の子供たちのようになり、尊師に対する崇拝を高めて、教団は結束を確かにする。

6年前の7月15日、トルコではあの忌まわしい「クーデター事件」が勃発した。その首謀者と見做されているギュレン教団にも、統一教会との類似性が指摘されていた。

ギュレン教団は、信者を家族から引き離して、教団の中で兄弟の関係を作り上げていたらしい。そのため、信者が外部の人と結婚しないように、男女信者らの間を取り持つ指導員までいたという。これは統一教会合同結婚式を思い起こさせるやり方ではないだろうか?

いずれも、冷戦中に、防共政策の支援を受けて勢力を拡大した。特に米国からの支援が大きかったようである。統一教会は、文鮮明師が米国滞在中に教団の基盤を築き上げたという。

ギュレン教団フェトフッラー・ギュレン師は、現在も米国へ亡命中であり、トルコ政府の再三にわたる送還要求にも拘わらず、米国は庇護を続けている。

傘下のメディアによって世論を操作しようとした所も良く似ている。また、尊師が異様に崇め奉られているカルト性も両教団に共通した特色と言えるだろう。

文鮮明師は、イエス様と会話することが出来たと語っていたそうだけれど、フェトフッラー・ギュレン師も、預言者ムハンマドと夢の中で語り合ったなどという伝聞がトルコでは報じられていた。

しかし、こういった尊師を中心に築き上げられた組織は、尊師が死亡した後、結束の維持が難しくなってしまうかもしれない。統一教会は2012年に文鮮明師が死亡すると、結束が緩み、子息による分派まで進んだようである。

現在、トルコでは「フェトフッラー・ギュレンは果たして未だ生きているのか?」について議論が巻き起こっている。最近、その動向が殆ど伝えられていないため死亡説が取り沙汰されているのである。

ギュレン教団は、2012年以降に統一教会がどうなってしまったのか見て来たので、実際、フェトフッラー・ギュレン師の死を秘匿する可能性は充分にあると思う。

 




 

「トルコの最も長い夜(クーデター事件)」

《2016年7月17日付け記事の再々録》

*(2016年7月16日:12時15分)
昨晩、クーデターを企てた軍の一派は、アンカラで国会や参謀本部等、政府の主要機関に攻撃を加えたという。その過程で、フルスィ・アカル参謀総長が人質に取られたと言われ、一時は安否が取り沙汰された。
前回の記事をアップした直後、「アカル参謀総長、無事に救出」という報道は見られたものの、無事な姿を伝える映像がなく、参謀総長代理としてユミット・デュンダル陸軍大将が任命されたため、アカル参謀総長の重傷説も飛び交っていた。
そして、ようやく11時頃、ニュースの画面に、ヘリコプターでアンカラの首相府に到着したアカル参謀総長の無事な姿が映し出された。これに続いて、ユミット・デュンダル参謀総長代理の記者会見があり、参謀総長代理はクーデターの企てを完全に制圧したと明らかにしている。
どうやら、クーデター事件は、1日も経たないうちに幕を下ろしたようだ。
しかし、なんと長い半日だったのだろう。もっとも、私にとっては、熟睡してあっと言う間に過ぎ去った、いつも通りの一晩である。
“黄粱一炊の夢”なんて言葉を間違ったところに使ってしまったけれど、そのちょうど逆だったと思えば良いかもしれない。私がうなされることもなく眠りこけている間に、夢ではない長い現実が経過していた。

2016年7月16日-イスタンブール・タクシム広場

2016年7月16日-イスタンブール・タクシム広場

2016年7月16日-イスタンブール・タクシム広場