メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

自由恋愛!

 《2008年6月11日付けの記事を一部省略変更して再録》

2008年の6月、イスタンブールで知り合って間もない同年輩のトルコ人とお互いの恋愛観などについて論じあったことがある。

この男は妻子持ちで、宗教は信じていないそうだ。教養があり、自由な進歩主義者という雰囲気だったから、多少下世話な冗談も気楽に話せると思った。

おそらく、向こうもそう思ったのだろう。のっけから、「君はトルコ人の女と遊んでみたりしないのか?」などと訊いてきた。

しかし、私はトルコ人の女性どころか、日本人の女性ともそれほど器用に遊んでみたりした経験がない。若い頃は、専らソープランドで満足していた。巷の女性たちとは巧く話を合わせることさえ難しかったのだ。

そのため、「・・・相手に対して真摯な気持ちがなくて、一時的な欲望だけで進んでしまうのはどうかと思いますが・・・」などと応じていたら、以下のような展開となった。

「大人の男と女が了解し合ってのことだよ。一時的な欲望であっても構わないじゃない。君はえらく保守的な考えを持っているね」

「しかし、あなたの場合、奥さんがいらっしゃるんですよね?」

「結婚したからには女房だけにしろって言うのかい? そりゃ無理だよ。君も随分固苦しいことを言うねえ」

「奥さんに何と説明するんですか?」

「そういう余計なことは言っちゃあいけないんですよ。気がつかれないようにしないとね」

「それでは、奥さんもそうやって他の男性と遊んで良いということですか?」

私がこの最後の問いを発すると、男の表情から笑みが消え、一瞬“ピクッ”と緊張が走り、「それは駄目だ。許されることではない」と声を震わせた。

「トルコでは決して許されない。これはトルコの文化だからね。パンパンと射殺してお終いだよ」

「でも貴方は、男女の平等を盛んに説いていたじゃないですか。イスラムのスカーフにも反対していましたね」

「男女の平等とは別次元の問題だ。トルコでは、パンパンでお終い! それ以外にない!」

「誰を殺すんですか?」

「二人ともだよ!」

「相手の男も武器を持っていたら?」

「そっ、それは・・・。見つけ次第、そこで始末するんだ。武器なんて持てないだろ?」

「それでは余りにも卑怯じゃありませんか? 昔、ロシアじゃ決闘したって話ですよ。どちらがその女に相応しいかってね。それで落命してしまう哀れな亭主もいたそうです」

「なんて馬鹿げた話だ。女房を寝取られたうえに殺されてしまうなんて・・・」

まあ、日本にもいろいろな男がいるだろうけれど、少なくとも『大人の男と女が了解し合って』などと自由な恋愛を標榜する人であれば、最後の問いに対し、それまでの流れから、『俺が知らないだけで宜しくやっているんじゃないの? どうだって良いよ』ぐらいのことは言いそうじゃないだろうか。 

それで、「そういう身勝手な自由恋愛の主張より、イスラム主義者の主張はよっぽど整合性が取れているのではありませんか?」と尚も暫くねちねち問い詰めたところ、彼は徐々に冷静さを取り戻した。

そして、「つい興奮して可笑しなことを言ってしまった。君の言う通りだよ。かなり矛盾しているね」としょげ返りながらも、「中央アジアにいたトルコ人も、もともとアナトリアに住んでいた人たちもそれほど貞操に拘っていたわけではない。これはイスラムと共にもたらされた文化だ。イスラムの所為で我々はつまらないことに興奮するようになってしまった」なんて言いながら、進歩主義者の面目を保とうとしたのである。

こういう身勝手な男たちから弄ばれないように自分を戒める敬虔な女性たちの信仰心も何となく理解できるような気がした。

一方で、男の身勝手な“自由”であっても、こうして恋愛を楽しむ男女が増えれば、女性たちの自我も芽生え、“女房の浮気は許さない”という男の我儘は切り崩されてしまうかもしれない。

実際、今のイスタンブールで育った新しい世代には、一応イスラムを信仰しながら、平等に自由恋愛を楽しんでいる若者たちは少なくないと思う。

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1985年の「テヘラン救出劇」

1985年3月19日、イラン・イラク戦争の最中に、トルコ航空機が、テヘランに残された日本人を救出したという。これは、2004年にNHKのプロジェクトXでも取り上げられた。当時、イスタンブールに居た私に番組を視聴する機会はなかったが、内容を伝え聞いて、その劇的な展開に感動していた。

しかし、良く考えて見ると、この「救出劇」には腑に落ちない点も多い。例えば、私は1990年に日本でトルコ語を学び始めて以来、トルコ関係の本は大分読んでいたけれど、2004年まで「救出劇」については全く知らなかった。危機的な状況の中で助けてもらったのに、我々日本人はそれを20年近く忘れていたのだろうか?

それで、2009年頃だったか、イラン・イラク戦争に関する様々な記事を読んで見たが、テヘランの非常に危機的な状況を伝える記述は見つからなかった。

イスタンブール在住のイラン人の友人に訊いても、「空爆はあったけれど、イラクの仕業だよ。アメリカがやるみたいには行かないさ」と笑っていた。空爆があると、屋上に上がって、「あの辺に落ちたぞ!」などと騒いでいたそうだ。

また、以下のウイキペディアによれば、空爆は「救出劇」があった3月ではなく、5月になってから始まったらしい。

どうにも気になったので、タクシムのアタテュルク図書館まで出かけて、1985年の当時、トルコの新聞でどのように報道されていたのか調べてみた。この図書館には、トルコの代表的な各紙が、かなり昔の分から保管されているのである。

まず、「救出劇」前日の新聞に目を通してみたところ、「サダムが民間機へ攻撃を宣言したので、明後日以降のテヘラン便は全てキャンセルされた。このため、明日は臨時の増便があるだろう」といった小さな記事が見つかったぐらいで、「テヘランの危機」を伝えるような記事はなかった。

「救出劇」当日の新聞には、トルコ航空の増便に乗ってイスタンブールへやって来た日本の人たちの写真が掲載された小さな記事があり、「脱出出来て良かった。テヘランは恐ろしかった」といった日本人のコメントが簡単に紹介されているだけで、他の少し大きな記事には、「日本の経済人が訪土。トルコへ投資か?」という話がこれまた写真付きで紹介されていた。

当日、テヘランから飛んだトルコ航空便には通常の定期便もあったわけで、それほど緊迫した状況などなかったようである。しかし、テヘランに残された人たちが、通常便のチケットを手に入れることが出来なかったため、商社の人がオザル首相に掛け合って、増便を手配させたところに劇的な要素はあったかもしれない。

それよりも、事件から20年近く過ぎた2004年になって、プロジェクトXなどで取り上げられた経緯が不可解で興味深く思えてしまう。

2004年と言えば、ギュレン教団の後押しで親米的なAKP政権が発足して間もない頃である。トルコは様々な日本のテレビ番組で紹介され、ひょっとしたらトルコブームが起きるかのようだった。日本からトルコへの投資も増えていたらしい。

その頃、トルコに投資された日本の事業家の方から、以下のような話を聞いたこともある。

「米国がトルコ経済の安定を強く望んでいて、日本もトルコに投資するよう小泉政権へ圧力を加えている・・」

これが何処まで事実だったのか、今となっては確かめようもないが、当時も、トルコ経済の活況は海外からの投資に支えられているという説は様々な所で論じられていた。

もしも、そういう裏があって、トルコブームが焚きつけられていたのあれば残念であるとしか言いようがない。そんなブームが長続きするはずもなかったのである。また、脚色された物語で得られた友好など、確かな絆にはならないだろう。


 

男は皆オオカミなのだ!

《2014年10月19日付け記事の再録》

キリスト教では、「マタイ福音書」に以下のような記述があり、男が性的な欲情を懐くこと自体、悪と看做されているのかもしれない。
「『すべて欲望をもって女を見るものは彼の心のうちですでに彼女を犯したのである』と。もし右の目があなたを迷わすならば、それを取り出して投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナ(地獄)に投げ込まれないほうがよい。・・・」(中央公論「世界の名著」-聖書)
これが現代でも適用されたら、私など毎日“強姦罪”で逮捕されていなければならない。その前に、目やら右手やら、身体のあらゆる部分が取り出されて死んでしまうだろう。
イスラムに、こういった過激な厳しさはないような気がする。男の性欲は当たり前に認められている。それで、女性は男の欲情を扇動しないよう慎まなければならないらしい。
そのため、スカーフを被ったり、ベールで顔を覆ったりするわけだが、これについても色々な解釈がある。

「中公クラシックス」のコーラン日本語訳で、その“光の章”を読むと、「・・顔おおいを胸もとまで垂らせ・・」とあって、なんとなくベールが正解のように思えてしまうけれど、これを「頭おおい」とする日本語訳もあるという。
トルコの宗務庁の見解は、ベールではなく、スカーフを被れば良しとしていたのではないかと思う。

いずれにせよ、これは宗務庁の見解であって、法的な拘束力はない。却って、以前はスカーフの着用が法的に制限されていたくらいである。
トルコの社会をざっと見渡すならば、既に、かなり敬虔なムスリムの間でも、スカーフを被るとか被らないではなく、男の欲情を激しく扇動する格好でなければ良いという理解になっているようだ。イスラム神学部の女性教授ですら何も被っていなかったりする。
つまり、「男が欲情するのは仕方がないから、女性の皆さんも余り扇動するのは止めて下さいね」ぐらいの感じじゃないだろうか。ここでも、イスラムは、一歩進んで解決しようとするのではなく、一歩退いて、とにかく安寧秩序を守ろうとしているように思える。

さて、2014年の10月、イスティックラル通り裏のフランス横丁にある出版社を訪ねた。用事が済んで外へ出たら、目の前をもの凄い美女が通り過ぎて行く。フランス横丁だから、そう連想したのか、とてもフレンチなブロンズの髪の美女だった。
半袖で紺色のポロシャツを着て、スカートも特に短いわけじゃなく、それほど肌は露出させていない。また、身体のラインを際立たせるようなピチピチのシャツやスカートでもなかった。

要するに、ごく当たり前な服装だったが、顔もスタイルも抜群に美しかった。それに、何とも言えず男を欲情させる雰囲気があった。
出版社は、階段状の小路の両脇に洒落たカフェが並ぶフランス横丁のちょうど中間ぐらいにある。イスティックラル通りへ出ようすれば、その階段状の小路を上がって行かなければならない。私は目の前を通り過ぎたフレンチ美女に続いて、階段を上がり始めた。
目の前にフレンチ美女の臀部が見えて、それが歩みと共に自然に揺れる。わざとフリフリさせなくても、スタイルが抜群であるため、その揺れが非常に欲情をそそる。スカートはぴっちりじゃないが、肉感的なラインを完全に覆い隠してしまうほどでもなかった。
それから、ふと気がついて、両脇のカフェのテラスに座っている男たちの様子を覗ったら、その殆どが、獲物を狙う狼のような凄い目つきで、彼女の後姿を追っていた。“マタイ福音書”なら、彼らは全て強姦の罪でゲヘナ(地獄)に身を落とすだろう。
あれには、なかなか殺気立ったものを感じた。もう一つ、おそらく、彼らにしてみれば、獲物の後ろにぴったりくっついている東洋人は、非常にけしからん、とても忌々しい奴である。それが、余計に殺気を感じさせたのかもしれない。

よくモダンな政教分離主義者たちは、「イスラムの連中が、肌の露出の多い女性を見る時の目つきは凄い。性を抑圧しているから欲情が溜まっているんだろう」などと揶揄しているけれど、あそこに座っていた男たちは、多分、殆ど政教分離主義者だろう。少なくともイスラム傾向はなかったに違いない。
イスラムだろうが何だろうが、もの凄い美女を前にしたら、男は皆オオカミになってしまうのである。イスラム的な人たちが拘っている「肌の露出云々」も、おそらく余り関係がない。もの凄い美女は、それほど肌を露出させる必要なんてないのだ。
まあ、「男は皆オオカミなんだから、女性の皆さんもほどほどにしてね」という発想は、そんな悪くないかもしれない。

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フランス横丁(tr.wikipedia.org)



 

 

 

ボクシングの名試合とベートーヴェンの四重奏曲

昨日、ハグラー氏を追悼する駄文を書いてから、1981年9月に挙行された「シュガー・レイ・レナードトーマス・ハーンズ」のウェルター級タイトル統一戦を久しぶりに観た。ハグラーのボクシングは実に芸術的だったものの、最初から相手を圧倒してしまう試合が多く、「大逆転勝利」といった試合は全く見当たらない。

ところが、「レナード対ハーンズ」の一戦は、前半をハーンズがやや有利に進め、中盤レナードが盛り返したものの、後半はハーンズが態勢を立て直して逃げ切るかに見えた矢先、突如としてレナードの連打が炸裂して大逆転勝利を収めるという実にスリリングな展開で、両者がその持ち味を存分に見せつけた名試合だった。


Ray Leonard vs Tommy Hearns I September 16, 1981 HD 60FPS No Commentary

私はこの試合を職場の休憩時間に赤羽の中華料理店で観ていた。

息詰まるような攻防が続いた第3ラウンドでは、隣のテーブルで食事していたスーツ姿の2人の内の1人も、思わず箸を止めてテレビ画面に釘付けとなり、「これ凄くない?」と同僚を誘ったけれど、同僚は少し観ただけで「なんだこれ外人同士じゃないか」と言って食事に戻り、見入っていた人も同僚に促されるまま画面から目を離してしまった。実に残念なことだと思う。

しかし、この試合を始め、レナードやハグラーの緊張した美しい動きは、何の予備知識もなく観た多くの人たちの心も捉えるのだと改めて感じ入った。後は自分の感性に素直になれるかどうかの違いじゃないだろうか? 

私も割と素直なところは数少ない取り柄の一つかもしれない。音楽なども『あれっ、これ良いな』と感じたら、直ぐ詳しい友人に尋ね、「それが気に入ったなら、これも聴いてみなさい」と勧められたものを聴いて、好きな曲を増やしてきた。

ベートーヴェンのラズモフスキー1番もそういった曲の一つだけれど、この曲の第4楽章を聴くと、何故かあの試合でレナードが見せた華麗なステップを思い出してしまう。とてもリズミカルで小気味の良いステップはなかなか音楽的であると言えそうだ。


Beethoven: String Quartet No. 7 in F Major, Op. 59, No. 1 "Rasumovsky" - 4. Thème russe. Allegro

そもそも、あの試合の展開はまるで一つの四重奏曲、もしくは交響曲を聴くような感じだったかもしれない。アレグロのようにテンポ良く進んだ試合は、中盤から後半にかけて、リーチ差を活かしてレナードとの距離を取り始めたハーンズの戦法により、まるで緩徐楽章といった雰囲気に包まれたものの、13ラウンドに突如としてクライマックスを迎え、怒涛のアレグロで締めくくられるのである。

まあ、40年もの間、同じ試合ばかり観て、こうして間抜けな感想を漏らすのもどうかと思うが、ボクシングはこの30年ぐらいでかなり衰退してきているような気もする。

米国では、頭部への打撃による危険性が指摘され、モハメド・アリやジェリー・クォリーを始めとする名選手がそれを立証するかのように健康を損ねて悲劇的な晩年を送ったこともあり、競技人口が激減したという。最近のニュースを見ても、各クラスで米国の黒人選手の活躍が余り報じられていない。あれでは相当にレベルも下がっているのではないだろうか?

しかし、ボクシングという競技の舞台が仮に幕を閉じることになったとしても、モハメド・アリ、マービン・ハグラー、シュガー・レイ・レナードの名試合の数々は、現代にベートーヴェンモーツァルトの曲が聴かれ続けているように、私たちの心を震わせ続けるのではないかと思う。

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マービン・ハグラーのボクシングと河本元通産大臣の美学?

ボクシングの元ミドル級チャンピオン、マービン・ハグラー氏が亡くなったと伝えられている。66歳の若さだった。コロナワクチンを接種した後で急に体調が悪くなったという情報もネットに出回っているけれど、はっきりしたことは解っていないらしい。

私は小学校6年生の頃に、モハメド・アリの試合を観て、ボクシングの魅力に嵌り、ハグラー氏が活躍した80年代までは、その試合の模様を良く観ていたが、91年にトルコへ渡航してからは殆ど観る機会もなくなり、今やヘビー級の現チャンピオンが誰であるのかも解らない状態である。

しかし、アリはもちろんのこと、ハグラーやシュガー・レイ・レナードロベルト・デュランの試合は今でもYouTubeで観たりしている。いずれの選手も洗練された動きで美しさが感じられると思う。特にハグラーの動きは芸術と言っても良いのではないだろうか?

90年代に活躍しボクシング史上最高などと謳われたロイ・ジョーンズ・ジュニアの試合はいくつか観たものの、その破天荒な動きは余り美しいと感じられなかった。

フライ級の世界チャンピオンだった海老原博幸氏(1991年没)が、当時、未だ存命でロイ・ジョーンズ・ジュニアの試合を観ていたら何と言っただろう? そのボクシングスタイルを辛辣に批判したのではないだろうか。

海老原氏のボクシングスタイルへの拘りは甚だしかった。テレビで解説しながら、「この選手は右フックを打たないから良い」なんて決めつけたりしていた。

その拘りによれば、オーソドックスの選手(海老原氏はサウスポー)は、必ず左足を前にして構え、そのスタンスを維持しなければならない。右フックを打ったりするとスタンスが崩れてしまうと言うのである。スタンスを保つために右足と左足をロープで結び付けて練習したなんて話も披露していた。

ちょっと記憶にはないが、海老原氏はハグラーのボクシングを絶賛したのではなかったかと思う。多分、ハグラーのスタイルはその美学に適っていただろう。

音楽も一定の規則性が保たれていると心地よく、「美しい」と感じられるけれど、それと同じようなことかもしれない。私には無調性音楽とかさっぱり解らないのである。

ところで、ハグラーのボクシングと言えば、私は新聞の記事で読んだ河本敏夫通産大臣のエピソードを思い出してしまう。

1982~3年頃、記者が政局の動向を問うため河本邸を訪れたところ、元通産大臣はハグラーの世界タイトル戦に見入っている最中で、そのまま試合が終わるまで記者を待たせ、「これ凄いねえ、ファイトマネーも数億円らしいよ」とか言ったそうである。

記事には、「ボクシングなんて観ている場合か?」という批判が込められていたものの、私はそれ以来「笑わん殿下」が大好きになってしまった。『美しいものが解る人だ!』と思ったのである。

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「アレム・ダー(山)の野良犬たち」

《2014年9月18日付け記事の再録》

月曜日(2014年9月15日)は、我が家の近くのタシュデレンから、アレム・ダー(山)の山麓を歩き、ポロネーズ・キョイ(村)まで行ってみようと思って出発した。
果たして、その道がポロネーズ・キョイ(村)へ至るのかどうか、グーグルアースでそこまでは確認して来なかったが、ちょうど正午を少し過ぎたぐらいの時点で、太陽が後ろの方に来ていたから、北の方角に向かっているのは間違いないと思われた。
道は、未舗装の砂利道だったが、車が楽に通れる幅があり、真っ直ぐ北(?)に向かっていた。
この単調な道を40分近く歩いただろうか、その間、車が通ることもなければ、人に会うこともなかった。早足で歩きながら、前方を注意していると、50m~100mぐらい向こうに黒褐色の犬が1匹姿を現した。

その先で道が右の方へ大きく曲がっているため、遠くまで見通せなかったが、犬はどうやら道の向こうからやって来たらしい。
中型犬ほどの大きさで、ほんの少しの間、こちらを見ていたが、直ぐに踵を返すと、道なりに右の方へ走り去り、姿が見えなくなった。
それから、また4~5分歩いたところ、今度は褐色のポインターが姿を現し、真っ直ぐこちらに向かって走ってくる。前方を注意したら、さきほどの黒褐色をはじめ、もう3匹、ゆっくりこちらへ近づいてくるのが見える。
ポインターは黒褐色より少し小さい。私の横まで来ると、ぐるっと回って、仲間の方へ引き返して行ったけれど、それと同時に3匹の歩調は早まり、私はあっという間に4匹の犬に取り囲まれてしまった。
犬たちはそれぞれ私の足元まで寄って来て、匂いを嗅いだりする。敵意はなさそうだが、頭を撫でたりするのは、ちょっと躊躇われた。

それに山の中で暮らしている所為か、街中の野良よりもっと汚らしい。4匹集まっているから獣臭も凄い。ぷーんと匂っている。

しかし、一応、保健所の処置は受けているようだ。4匹全てが耳に鑑札を付けていた。
追い払うにも、4匹いるとさすがにこちらも怖気づく。しょうがないから4匹を引き連れたまま歩くことにした。

犬たちは私の周りを回ったり、後ろに下がったり、前を走ったりしながら、離れようとしない。4匹で脇の林の中へ入って行ったかと思うと、また直ぐに戻って来る。
こんな状態で、10分ぐらい歩いたら、道の分岐点に出た。砂利道は左の方へ下って行く。直進すれば、道には砂利がなくなって地肌が現れ、道幅も急に狭くなっている。

ポロネーズ・キョイ自然公園」という標識が出ていて、方角的にはこの細い道がポロネーズ・キョイへ至る近道であるような気がする。
でも、犬たちと一緒に山の奥へ入って行くのは何だか薄気味悪い。こちらへ行ったら、車や人と遭遇するチャンスはまずないだろう。こうして思案しながら、気持ちが砂利道を下りて行く方に大分傾いたところ、ちょうどそこへ、下から乗用車が上がって来た。
30歳ぐらいの青年が運転していて、私が立っている分岐点まで来ると、窓を開け、「この道はタシュデレンまで行くんですか? あとどのくらいありますか?」と私に訊く。時計を見たら、1時20分だった。

それで、「私はタシュデレンから歩いて来たんですが、だいたい2時間掛かっていますね。車だったら直ぐですよ」と答え、私も彼に道を訊いた。「ポロネーズ・キョイはどっちへ行ったら良いんでしょう?」
青年はちょっと逡巡してから、「私が来た道を行けば、ポロネーズ・キョイまで確実に行けますが、そっちの道はどうでしょうかねえ? 標識はともかく、止めた方が良いと思います」と丁寧に答えてくれた。
これで決まった。青年に別れを告げると、また4匹を連れて、砂利道を下って行った。
10分ぐらい歩いて、ちょうど4匹が私を先導するような形で前を走っている時に、デジカメを取り出して写真を撮ったりした。なんとなく、『犬たちとの道中も悪くないな』と思い始めたところだった。
大きな吼え声がしたかと思ったら、前方に大きな犬が姿を現したのである。距離は100m~200mぐらいあったかもしれない。
2匹大きなのが立ちはだかって激しく吼えているが、その後ろにも数匹いるのが見える。全部で6匹ぐらいはいそうだ。吼え声の数からすると、もっと多いかもしれない。
4匹は立ち止まって、ちょっと後ずさりした。リーダー格と思われる黒褐色が、私の方を振り返ったけれど、その目つきは『おい、あんたも人間の端くれだろ? あの犬たちを何とか出来ないのか?』と言っているように見えた。
しかし、その時点で、既に私も犬たちと一緒に立ち止まり、後ずさりしていた。少し遠くて良く見えなかったが、大きな奴の1匹は、カンガルというトルコ特産の牧用犬に似ていた。

あんな恐ろしげなのが相手じゃ、ひとたまりもない。そのまま後ずさりを続けたら、黒褐色は2度ほど力なく吼え、大きな奴が吼えながら、こちらへ向かって来るそぶりを見せると、スタスタと退散し始めた。私も残りの3匹と一緒にその後に続いた。
その頃には、数十匹いるんじゃないかと思わせる吼え声の大合唱になっていたものの、それ以上追撃して来そうな雰囲気はない。
4匹が何処までついて来るかは解らないが、私はもうタシュデレンまで引き返そうと思い始めていた。ただ、4匹とは、すっかり仲良くなったように思えたから、「ポロネーズ・キョイ自然公園」を犬と一緒に歩いてみようかという気持ちも未だ捨てていなかった。
分岐点まで半分ぐらい戻ったら、そこへ先ほどの乗用車が折り返してきた。青年は車を止めて窓を開け、「どうしました?」と訊く。それで私も有体に説明した。
青年は笑いながら、「いやあ、その犬たちは、多分、その付近の住人たちが飼っている犬でしょう。もう直ぐ先から道も舗装道路になり、集落もあります。こんな山の中より絶対に安全です。まあ、乗りなさい。私がもっと安全な所まで送ってあげましょう」と言い、助手席のドアを開けてくれた。
私が車に乗り込もうとすると、ポインターが名残惜しそうにすり寄ってきた。ドアを閉めようとしたら、離れてくれたけれど、私も何だか名残惜しいような気分だった。
車で犬たちが吼えていた地点まで来ると、なるほどそこから道が舗装道路になり、周囲には家々が見える。でも、先ほどの犬たちは姿を消していた。沿道を物憂げに歩く中型の犬が2匹見えたけれど、吼えもしなければ、こちらを見ることもなかった。
青年はそこからさらに2キロほど先の分岐点まで送ってくれるという。「そこまで行けば、後は簡単です。2回右へ曲がるだけですから。ポロネーズ・キョイまで8~10キロぐらいじゃないかと思います」。
分岐点まで来て、先を見たら、100mぐらいの所に、また大きな犬が立ちはだかっている。その前の家の番犬らしい。
「さっきもね、あんなのが吼えていたんですよ」と言ったら、青年は「ハハハ」と笑い、犬を通り過ぎて、もう100mぐらい行った所まで送ってくれた。
犬は車で横を通っても吼えなかったが、青年が私を降ろして戻って行くと、その時は吠え立てていた。
犬が前に立っていた家は普通の民家だったが、車を降りて青年に別れを告げ、暫く歩くと、左手に何軒か周囲を塀や柵で囲った豪邸があった。何処の豪邸も、庭で番犬を飼っているのか、前を通り過ぎると、凄まじい勢いで吼え立てる。
おそらく、吼え声の大合唱になっていた時は、そういう庭で飼われている犬たちも吼えていたのだろう。

外に出られたのは、姿を見せていた5~6匹だけだったかもしれない。連中は、怪しげな野良犬が近づいて来たから、『こいつらを村に入れてなるものか』と必死に吼えていたのだと思う。
あの時、さらに近づいていたら、私も野良犬の仲間と看做されて襲われていただろうか? 車で送ってもらって本当に良かった。 

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「イスタンブールには船で行け!」:ラフマニノフのピアノ協奏曲

 「イスタンブールには船で行け!」。誰の言葉だったのか忘れてしまったが、1991年の4月に初めてトルコへ渡航する前、何かの本で読んでいたのではないかと思う。

そのため、1991年の4月、私はイスタンブールの空港に降り立つと市街地へ足を踏み入れることもなく、近くのバスターミナルから、語学教室への入学を予定していたイズミルへ向かった。そして、イスタンブールを離れるまで、バスの窓からなるべく外を見ないようにしていた。

イスタンブールを訪れたのは、その7月か8月、語学教室が夏休みになってからだ。それも、まずはアンカラへ行き、そこからバスでイスタンブールを目指したのである。

しかし、船で行くためには、アジア側で降りてボスポラス海峡を渡らなければならない。当時、長距離バスの多くは、アジア側でボスポラス海峡に面するハーレムのバスターミナルを経由していたが、私はウスキュダルから船で渡ることに拘っていた。それで、バスの運転手さんに訊いて、下をウスキュダルへ行くミニバスが通るという陸橋の袂で下ろしてもらった。

その日は天気も良く、ウスキュダルの船着き場に出て、遠くヨーロッパ側にスレイマニエ・モスクの姿が見えた時の感動は今でも忘れられない。

乗り込んだ船はスレイマニエに向かって海峡を渡って行く。私は船首に近い前方が見渡せる所に立って、その光景を凝視していたけれど、多分、頭の中には「ラフマニノフのピアノ協奏曲2番の3楽章」が鳴り響いていたはずだ。

あれから30年、今でもあの3楽章は、私にとってイスタンブールのテーマ曲であり続けている。イスタンブールに居た頃も、船で海峡を渡る時、良く頭の中で鳴り響かせたりした。今は曲を聴くたびに、イスタンブールの海峡の光景を懐かしく思い出すのである。


H. Grimaud 3/3 Rachmaninov piano concerto No.2 in C minor, op.18 [Allegro scherzando]

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