メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

モハメド・アリの追悼式

昨日(6月10日)、アリの故郷ルイビルで追悼式が行われ、出席したクリントン元大統領は弔辞を読み上げたそうだ。
トルコのエルドアン大統領も、この追悼式でスピーチするかもしれないと噂されていたけれど、エルドアン大統領は、前日営まれたイスラムの葬儀に参列しただけで、早々と帰国の途についた。
おそらく、アメリカ側との調整がつかなかったのだろう。アメリカ側としても、中東のイスラム世界ではアリ以上にポピュラーな人気があると言われるエルドアンに追悼式でスピーチなどされたら迷惑だったに違いない。
しかし、アメリカはこの追悼式で、イスラムと他宗教の融和を巧みに演出しようとしたはずだ。エルドアンの葬儀参列も、その意味では悪くなかったんじゃないかと思うが、どうなんだろうか?
さて、昨晩のある時事番組では、ファディメ・オズカンという女性ジャーナリストが、アリの思想的な功績を称えながらも、ボクシングは頭部に打撃を加える危険なスポーツだから廃止されるべきじゃないかと論じていた。
アメリカでもボクシングを危険視する声は年々高まっていて、競技人口は減少の一途を辿っているそうだから、ボクシングの歴史に幕が下ろされる日は、そう遠くないかもしれない。
今思えば、モハメド・アリの名は、ボクシングというスポーツがその頂点を極めた時代に燦然と輝いていたのだろう。少なくとも、ヘビー級では技術的にも頂点に達していたような気がする。その後、アメリカで、身長も高く運動能力に優れた人たちは、バスケットボールなどの分野を目指すようになり、ヘビー級の競技人口は急激に減ってしまったらしい。
アリのパーキンソン病と頭部に加えられた打撃の因果関係も良く取り沙汰されていた。しかし、アリが相手の選手にそれほど深刻なダメージを与えたことは余りなさそうである。
アリのパンチ力は、ヘビー級歴代チャンピオンの中で最も軽いと評されていたくらいだし、それが平和主義によるものかどうかは解らないが、アリはグラッとよろめいた相手に決定的なパンチを打ち込むのを躊躇うことが多かった。おそらく、そこに何らかの美意識はあったに違いない。
アリのボクシングの魅力は、“蝶のような舞い”で相手のパンチを外し、“蜂のような一刺し”で的確に相手の急所を突き、酷い肉体的なダメージを与えずに勝つところだったと思う。

アリに倒された相手は、大概の場合、カウントが終わる頃には立ち上がっていて、そのまま失神してしまう事態には至っていない。アリのボクシングに、背筋が冷たくなるようなシーンはまずなかったはずである。
著書「カシアス・クレイ」の中でホセ・トレスは、アリとジョー・フレージャーの力量を比較しながら、アリの100%はジョーの100%を上回るものの、アリはジョーのように、いつも100%に仕上げてくるわけじゃないと論じて、ジョー・フレージャーが自分の肉体を鞭打つ態度に、中南米の独裁者たちを擬えていた。
「フレージャーは、トルヒーヨ(この後に他の独裁者の名が続いていたと思う)のような態度だ。彼の肉体はその命令に従わなければならない。それでは、アリの態度は何なのか? きちがいじみた民主主義者なのか? 考えてみなければなるまい。・・・」(こんな感じで記されていたように記憶している)
アリは、ボクシングの選手として、なかなか“穏健派”だったのかもしれない。また、民主的だったかどうかはともかく、確かに好不調の波があって、いつも100%には仕上がっていなかったような気もする。
これでは、完璧なアスリートとは言い難くなるけれど、1975年10月の対フレージャー第3戦で、アリは超人的な精神力を発揮して、“冷酷な独裁者”との消耗戦を凌いで勝つ。あの試合にも、私はアリの神懸かりな力を感じてしまった。
また、12歳の少年アリは、親の指導でも周囲の勧めでもなく、ほぼ自分一人の決意でボクシングを始めたらしい。シュガー・レイ・ロビンソンに憧れて、そのボクシングを模倣したそうだが、ロビンソンの教えを受けたわけでもなければ、子供の頃から教官たちの指示にも余り従わず、自分でボクシングに関する本を読み漁って、自分なりにやり方を研究したという。
オリンピックで金メダルを取った後、プロ入りする過程で、自らアンジェロ・ダンディーのジムに押しかけ、自分を勧誘しに来なかったダンディーに腹を立てて、「どこのジムも、高級車を用意したりして俺を勧誘したのに、あんたは馬鹿じゃないのか?」と罵ったというから凄い。
なにからなにまで、自分が起点となっていなければ気が済まない究極のエゴイストだったのだろうか?
と、こうやってアリの話を始めたら、一日中続けてしまうから、この辺で止めにします。そもそもここまでの話は、以下のホセ・トレスの著作「カシアス・クレイ」に書かれていたことばかりです。