メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

1999年8月-トルコ北西部大地震の追憶

1月17日、阪神大震災から25年が過ぎた。そして、一昨日(24日)は、トルコの東部エラズー県で大きな地震があったという。多くの方が亡くなり甚大な被害に見舞われているようだ。

トルコの東部では、2011年10月にもワン県を中心に大地震が起きている。あれから8年も経っていることが信じられないくらい鮮明な記憶として思い出す。
しかし、私はいずれの場合も遠く離れた所にいて無事だった。災害の凄惨な模様はニュースの映像から見ていたのである。
私の脳裡に最も生々しい印象を焼きつけたのは、なんと言っても1999年8月17日のトルコ北西部大地震だろう。この時も私はイスタンブールにいて、直接被害を受けたわけではなかったけれど、僅か1ヶ月前に就職した邦人企業の工場が所在するアダパザル県は壊滅的な打撃を被った。
工場は、その1週間ほど前から夏季休暇に入っていたので、出向者の多くは日本へ一時帰国していた。現地採用でそれほどの余裕も無い私は、イスタンブールの友人たちを訪ねてのんびり過ごしていたが、就職したばかりの工場の辺りに少し馴染んでおこうと思い、休暇を早めに切り上げてアダパザル県のクズルック村へ戻ることにした。その頃は未だ工場に隣接する社宅に住まわせてもらっていたのである。
ところが、当日、私はクズルック村へ行く最終のバスを逃してしまい、仕方なく、イスタンブールで友人家族が経営していたホテルに只でもう一晩泊めてもらった。地震が発生したのは、その深夜3時だった。
イスタンブールでは、震度3~4ぐらいでそれほどの揺れでもなかったが、揺れている時間は結構長かった。ホテルの廊下のソファで横になっていた私が目を覚ましてからも、揺れは暫く続き、近くの部屋の中からは、宿泊している若い日本人女性客の「この地震、長いなあ~」という寝ぼけた関西弁の会話が聴こえて来た。
揺れが収まると、上階にいたイタリア人二人連れが「アースクェック! アースクェック!」と喚き散らしながら階段を駆け降りていったけれど、私はその内にまた寝入ってしまった。日本人女性客も朝まで部屋から出て来ることはなかった。
朝、目が覚めて階下へ降りると、友人家族もあのイタリア人たちも、その他の宿泊客も、皆、外の歩道に座り込んでいた。どうやら彼らは朝までそうやって過ごしていたのだろう。すっかり明るくなってから、ようやく暢気な顔で姿を現した我々日本人を見て呆気に取られていた。
しかし、その後、皆でホテルの中へ戻り、チャイを飲みながらテレビのニュースを見て、アダパザルの惨状を伝えるに映像に、今度は私が凍りついてしまう。『せっかく就職出来たのに・・』と最悪の事態が胸をよぎった。
とにかく急いで現地へ行かなければと思ったものの、アダパザル行きのバスが運行を再開したのは3日後のことだった。運行再開のニュースを聴くや直ぐにバスターミナルへ向かい、なんとかチケットを確保することができた。
バスは想像したほどの混雑もなく、アダパザル市内に入ったが、所々ビルが倒壊している惨状に、乗客たちの多くは腰を浮かして窓の外を食い入るように見つめていた。しかし、その辺りから建屋が半壊していたバスターミナルを経て、ミニバスを乗り継いでクズルック村に至った道の周辺は、通行が可能なだけでも相当に良い方だったのである。
数日後、急ぎ帰任した出向者の方たちと訪れた市内中心部の惨状は、到底、私如き者が描き切れる光景ではない、文字通り筆舌に尽くし難いものだった。公には死者1万7千余と発表されたけれど、『4~5万人の方が亡くなったのではないか・・』とも言われた。
私は1ヶ月前に移って来たばかりで、顔見知りになった人たちの中に犠牲者がいなかったことに心中ほっとしていた。記憶している限りでは、800余名に及ぶ工場従業員の中にも犠牲者はいなかった。「奇跡」と言っても良いのではないかと思う。 

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