メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

蝶のように舞い蜂のように刺す


Muhammad Ali vs Jerry Quarry II 27.6.1972 - NABF Heavyweight Title

私がモハメド・アリに引き付けられたのは、1972年の6月、テレビでジェリー・クォーリーとの第2戦を観てからだ。当時、私は小学校6年生だった。
その2年近く前に、ジョー・フレージャーとの歴史的な一戦も観ていたけれど、あれは父親が大騒ぎして観ていたのを一緒にぼんやり眺めていただけで、最終ラウンドにアリが壮絶なダウンを喫した場面ぐらいしか印象に残っていなかった。
その後もスポーツ観戦と言えば、相撲と野球で、ボクシングには余り関心がなく、ジェリー・クォーリーとの第2戦もたまたま他に見る番組がなかったので、なんとなく観始めたに過ぎない。あの時間、家には私の他に誰もいなかったのではないかと思う。
それが、暫く観ているうちに、画面の中のアリの動きへ引き寄せられてしまう。

とにかく『なんて格好良いのだ!』と感嘆していた。あの試合のアリは、全盛期を彷彿とさせる動きで、カウンターの名手と言われたクォーリーを翻弄し、まさしく“蝶のように舞い蜂のように刺す”だったような気がする。
それから瞬く間に、アリは私の“絶対的なヒーロー”になってしまったけれど、要するに、動きの格好良さ、美しさに見惚れていただけで、今、やたらとクローズアップされている“政治的な言動”であるとか“イスラムに改宗”といったリング以外の出来事には殆ど関心もなかった。

今でもそれほど関心を持っているわけじゃない。私にとってアリは、あくまでもボクシングというスポーツのヒーローである。
ところが、そのボクシングで、私はアリの全盛期をリアルタイムで見ていない。アリの全盛期は、なんといっても兵役拒否で3年余のブランクを経る前の1965~67年頃だろう。
今では、以下のように“YouTube”から簡単に当時の試合を観ることが出来るけれど、これをリアルタイムで観ていたら、どんなに素晴らしかったか・・・。


Muhammad Ali vs Cleveland Williams

リング以外の言動に、それほど興味はなかったものの、“ほら吹きクレイ”とまで言われた大言壮語は、なかなか痛快だった。

私自身が意気地なしで、なるべく自分のエゴを隠そうと努めて来たから、あのエゴむき出しの言動が痛快に思えたのかもしれない。
それに、普通、人間がエゴをさらけ出したら嫌らしく見えるはずなのに、アリの場合はなんとなく微笑ましく見えてしまうから不思議だ。

あまり屈折したところのない一直線な人柄の所為じゃないかと思う。

しかし、あれほど強烈なエゴを持った人間が、なんらかの宗教に帰依してしまうのは、ちょっと信じ難い気もする。アリにとって神とは、即ち自分自身ではなかったのだろうか?

以下の「カシアス・クレイ」には、ノーマン・メイラーによる前書きが収められていて、メイラーはアリの強烈なエゴを独特な表現で称えていたけれど、残念ながら殆ど思い出せない。

アリがエゴのボートで宇宙空間に飛び出すとか、そんな言い回しだったような記憶が頭の片隅にある。

また、読んで直ぐに強い印象を受けたのは、翻訳の力もあったに違いない。