メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

民主主義の中のイスラム

1月5日付けのサバー紙で、“イスラムと民主主義”と題された、シュクル・ハニオウル氏のコラムを読んだ。ちょっと難しくて、何処まで理解出来ているか心許ないが、最後の部分だけを、以下のように拙訳してみた。
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・・・ホセ・カサノヴァが明にしたように、「世俗的なコンテクストで活動することを認めるならば、宗教は公共的な役割を演じて、“公共の宗教”という立場を獲得できる」。これは可能であり有益である。
イスラム主義の思想家たちも、これを受け入れて、「ムスリムの社会では、多数派の価値観と考えを受け入れない人たちの自由は制限される」という説の代わりに、「宗教が、単に個人的にではなく、社会的なレベルでも干渉されることなく活かされ、議論される、そして、公共的な役割も果たせる、言い方を変えるならば、“イスラム的な民主主義”ではなく、“民主主義の中のイスラム”」というアプローチを受け入れなければならない。
双方で、これに激しく抗議する人は少なくないだろう。しかし、トルコは、理論的なアプローチではなく、試行錯誤という方法によって、既に、この目標へ向かって歩み出していると言える。
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私はこれを読んで、ふと思ったのだが、ひょっとするとトルコ共和国は、世俗主義政教分離主義を進める際も、理論的なアプローチによってではなく、試行錯誤という方法でやっていたのではないだろうか?
共産主義のように、宗教を弾圧することはなかった。宗務庁は当初より存在していた。宗教教育でも、イマーム・ハティップ校を設立、廃止、再開と試行錯誤を繰り返している。
“ネオ・オスマン主義”などと言って、今、新たにオスマン帝国への憧憬が芽生えたかのように言われたりもするが、トルコ共和国は、その出発点から既に“オスマン帝国の後継者”であることを自覚していたかもしれない。
例えば、国旗のデザインも、オスマン帝国のものと殆ど変わっていない。国歌の歌詞には、“新月”“神”“エザーン”といったイスラムを想起させる言葉がたくさん出て来るけれど、“トルコ”という言葉は一度も出て来ない。そのまま充分、オスマン帝国の国歌としても使えそうだ。
ラディカル紙のモスクワ特派員を務めていたスアト・タシュプナル氏は、トルコとロシアの近世史の類似性を指摘して、アタテュルクとレーニン、イノニュとスターリン、デミレルとブレジネフ、オザルとゴルバチョフを対比させながら、時代毎の各指導者まで良く似ていると論じていた。
確かに、デミレルとブレジネフ、オザルとゴルバチョフに関しては、『なるほど!』と唸ってしまったものの、イノニュがスターリンでは酷すぎる。そもそも、最初のアタテュルクとレーニンが全く違うだろう。
アタテュルクは、オスマン帝国の伝統を根こそぎ破壊するようなことはしなかった。そして、当初より、トルコを民主主義の国にする青写真を描いていたのではないかと思う。
さらに、また勝手な想像だが、アタテュルクの共和国には、もともと“民主主義の中のイスラム”という発想があって、そのイスラムの“信仰の度合い”について試行錯誤を繰り返して来ただけのような気もする。