メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

多文化主義と国際交流

90年頃だったか、もう少し後のことだったか忘れてしまいましたが、韓国の政治家が日本のテレビ局のインタビューに答えて、「我々は大きなシンガポールを目指す」と語っていたのが印象に残っています。シンガポールのような多文化主義の国になるという趣旨の発言だったけれど、あれから10年以上経って、果たして韓国が未だそれを目指そうとしているのかどうかは良く解りません。 

しかし、日本よりは遥かに可能性があるかもしれないと思っています。なんと言っても、韓国人は自分たちの文化的なアイデンティティーで結束して、他の文化集団と喧嘩できるところが強みじゃないでしょうか。いつだったか、ロサンジェルスで、韓国人のコミュニティーが黒人たちと大騒動を繰り広げたけれど、あれが出来るくらいじゃないと多文化主義なんてやっていられないかもしれません。日本人の移民は、多くの場合、その社会にすっと溶け込んで自分たちの文化を失ってしまうようだから、そもそも“多文化”にならないでしょう。

イスタンブールなどで見られる日本人社会は、あくまでも長期滞在者の集まりであり、永住目的の移民とは比較できないように思います。韓国人滞在者の中には、ほぼ永住目的と思われる人たちもいて、彼らは、既にプロテスタントの韓国人教会を核にして、コミュニティーを形成しつつあるかもしれません。アメリカの韓国人コミュニティーは何を核にしているのでしょうか? 

日本は、一つの文化の中である程度の多様性を認めて行くようなことは出来ても、全く異なる文化が入って来て同化を拒み、摩擦や衝突を起こした時に、巧く対応できるかどうか疑問です。大陸の国々は韓国に限らず、侵略したりされたりして文化的な衝突や摩擦を繰り返してきているから、自分たちの文化的アイデンティティーの守り方も、相手文化集団との喧嘩の仕方も良く心得ているように思えます。

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私は何の信仰も持っていませんが、歎異抄の以下のようなところは結構好きです。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」。

“これは絶対に正しい”などと押し付けがましいことは言わずに、「総じてもつて存知せざるなり」で済ませてしまっているところに魅力を感じるけれど、こういう慎ましさは、なかなか日本的な風景じゃないでしょうか。

しかし、異民族の間で侵略が繰り返された大陸で、このように慎み深く理解を求めていたりしたら、とっくに潰されてしまっていたかもしれません。ユダヤ教キリスト教イスラム教といった宗派が、“自分たちの信仰が絶対に正しい”と言って、他の宗派を攻撃して止まないのは、自己防衛の手段として当然であるようにも思えます。

日本でも、日蓮宗は他の宗派に対してかなり攻撃的ですが、日蓮はモンゴルの襲来を予想しながら、その教義を確立させたようです。日蓮はなかなか国際感覚に優れた人であったかもしれません。現在も、日蓮宗系の各教団が熱心に国際交流を進める上で、そういった感覚が活かされているとは考えられないでしょうか。