メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ほほにかかる涙

94年に3年暮らしたトルコから戻って来て川崎の産廃屋で働き始めた頃、川崎駅前のCD店で“ゴールド・コレクション”という60年代の洋楽を集めたCDを買って来て良く聴いていました。

ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」とかプラターズの「オンリー・ユー」、プレスリーの「好きにならずにいられない」なんていう収録曲に魅かれて買ったものの、当時から現在に至るまで、最も気に入って聴き込んでいるのは「ほほにかかる涙」という、それまでは曲名さえ知らなかったイタリア語の歌です。

ボビー・ソロという歌手が64年にヒットさせたそうですが、このボビー・ソロが歌っている他の曲は未だに聴いたことがありません。

CDの歌詞カードにはイタリア語の歌詞が記されているけれど、対訳はないので、長い間、意味も解らぬまま聴いていました。曲は長調でも、“ほほにかかる涙”というからには余り楽しい内容の歌ではないだろうし、実際、何処となく哀愁を帯びた雰囲気があり、その辺が気に入っていたのです。

歌詞の内容は、2001年だったか、クズルック村からトゥズラの工場に出向いていた頃、このトゥズラ工場に勤務していたトルコ人女性から教わりました。

イタリア語に堪能な彼女は、イタリアのミラノにある支社で“トルコ語~イタリア語”の通訳として採用されたようですが、どうもこの職場に巧く馴染めなかったらしく、トルコへ戻って来て、暫くトゥズラ工場のオフィスで働いていたものの、ここでも齟齬をきたし、結局、トゥズラ工場製造部のチーフとして再出発していました。

なかなかの美人でしたが、ちょっと神経質そうなところがあり、歳はもう30に近かったのではないかと思います。

当時、ミラノ支社の責任者だったイタリア人男性は、度々クズルック村の工場にも出張して来たけれど、なにしろ身の丈が2m以上もある巨漢で、「あの神経質そうな女性が彼の下で働くのは大変だったかもしれない」という話も聞かれたほどです。

私は、あの巨漢に“動くアルプス”という綽名を付けて、一人でほくそ笑んでいました。昔、ボクシングの世界にそう名付けられたイタリア人のヘビー級チャンピオンがいたのです。

どの部署からも持て余されてしまった彼女を、製造部の日本人部長が引き受けたわけですが、そこには『イタリアでも苦労したのに可哀想じゃないか』という親心めいたものがあったのではないでしょうか。私の勝手な想像ですが・・・。

彼女が製造部で働き始めた頃、日本人部長は、「なかなか一生懸命やっているじゃないか。あれなら大丈夫だろう」と喜んでいました。「もともと頭の良い女性だし、やる気もあるようだから何とかなるさ」と仰っていたように記憶しているけれど、こちらは一向にピリッとしないヘボ通訳への当て付けだったかもしれません。

部長の自宅は、イスタンブールのアジア側、ジャッデボスタンにあり、これを知った彼女が、「その近くに友人の経営しているイタリア料理店があって、最近、店の一角に鮨コーナーを設けたのですが、一度ご一緒できないでしょうか?」と提案したところ、彼女の仕事ぶりに期待をかけていた部長も快くこれを受け入れ、一度、私も交えて3人で出掛けたことがあります。

鮨コーナーで彼女は躊躇うことなく鮨を頬張り、雑談に花を咲かせました。彼女の御両親は日本へ2回も観光旅行に行ったというから、もともと裕福な家なのでしょう。トゥズラの工場へは洒落た輸入車で通勤していました。

その頃、彼女に「ほほにかかる涙」の歌詞をトルコ語に訳してもらったのです。しかし、彼女はこの歌を聴いたことがないようでした。

それから間もなく、私はまたクズルック村の工場へ配置換えとなり、暫くすると部長も日本へ帰任してしまいました。その後、彼女が製造部でも巧く行っていないという噂を聞いたけれど、トゥズラの工場を訪れる機会もなく、本当のところはどうなのか良く解りませんでした。

あれは、2002年の末だったでしょうか。私が退職を間近に控えていた頃じゃなかったかと思います。トゥズラの工場に新しい工程が設置され、クズルック村の工場から日本人の技術部長が出掛けて、それをチェックしなければならなくなり、私も通訳として同行することになりました。

そういった工程はラインの外に設けられ、仕事量も少ないから、それほど手際の良さを必要としません。その為、熟練した作業員が配置されることはなく、まあ、どちらかと言えば余り要領の良くない作業員向きでした。

責任者は未だ若い男で、私がトゥズラにいた頃は一介の製造作業員として働いていたはずですが、要領も良くしっかりしているので、責任者に抜擢されたのでしょう。

技術部長を前に、整然とその工程内容を説明していました。部長は一通り説明を聞いた後、装置を自ら手に取ったりしながら細かくチェックしていたので、私はその間、10人ほどの作業員がうつむき加減に作業している様子を漫然と眺めていたけれど、一人の女性作業員が目に映った瞬間、思わず凍りついたようになってしまいました。

あの「ほほにかかる涙」を訳してくれた彼女だったのです。

私は数秒間、動悸を抑えながら、目を凝らして見ていたものの、彼女はずっとうつむいて作業を続け、顔を上げて私を見ることはありませんでした。

しかし、責任者と技術部長がやり取りしている時、私の下手な特徴のあるトルコ語に気づいていたかもしれません。私は部長の呼ぶ声で我に返り、促されるまま一緒にそこを後にしました。

彼女は結局、何処の部署でも巧く行かず、自主退社か一介の作業員として残るかの選択を迫られ、後者を選んだのではないかと思います。それは彼女なりのささやかな抵抗だったのでしょうか。

私は年が明けた2003年の1月に退社して一旦日本へ帰国した為、その後、彼女がどうなったのか知る由もありません。もともと裕福な家の娘さんですから、また気を取り直して、他の仕事にチャレンジしただろうと信じています。