メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アラビア語の賛美歌/イスラムの聖歌


Mersin Rum Ortodoks Kilisesi Korosu - İfrahi Ya Bayta Aniya (Sevin Ey Beytanya)

メルシン(トルコの地中海沿岸)の東方正教会の教会で、聖歌隊が歌う賛美歌。ギリシャ語ではなく、アラビア語で歌われている。

2010年の3月、メルシンを訪れた際、この教会にも立ち寄ってみた。中には入れなかったが、門の所にアラビア文字が記されていたと記憶している。

トルコの東方正教会の信徒は、5千人ぐらいと発表されているけれど、その多くはシリアとの国境に接するハタイ、あるいはメルシンなどで暮らしているアラブ系の信徒であり、ギリシャ語を母語するルムの信徒は1500人ほどに過ぎないらしい。

ハタイのアンタキアの教会では、アラビア語のミサを見学する機会もあった。2011年5月のことである。

トルコでは、プロテスタントの教会がトルコ語によるミサを執り行う場合も、神を「アッラー」と称しているくらいだから、アラビア語のミサでは、もちろん「アッラー」が使われていたのではないかと思う。

インドネシアかマレーシアで「アッラー」という言葉を異教徒が使うのを禁じたと報じられていたけれど、トルコの人たちが聞いたら驚くだろう。「アッラー」とは、「神(唯一の)」を意味するアラビア語の単語だからである。

上記の賛美歌に、「アッラー」と歌っている箇所はないようだが、その曲調は、以下の駄文でご紹介したイスラムの聖歌に少し似ているかもしれない。同じアラビア語で歌われているからそう感じるのだろうか?

20年ほど前、イスタンブールプロテスタントの教会で「アナトリア風の賛美歌」を聴いて、トルコ人の牧師さんに「イスラムの歌に似ている」といった感想を述べたところ、「あの調子は元々アナトリアに住んでいた東方正教会のクリスチャンが使っていたものです」と教えられた。

牧師さんによれば、元来イスラムに聖歌を歌う伝統はなかったそうである。確かに、今でもモスクの礼拝で聖歌が歌われるなんてことは全く考えられないだろう。

イスラムの異端派と言われているアレヴィー派は、「ジェムエヴィ」で歌や舞踊もある礼拝を営んでいる。トルコではスーフィズムによる旋舞も有名である。

トルコの信心深いスンニー派ムスリムの中には、伝統的な楽器による演奏や歌曲の保存に熱心な人たちも少なくない。

ところが、サウジアラビアワッハーブ派では、歌や舞踊を華美なものとして避ける傾向さえ見られるらしい。しかし、このワッハーブ派も、以下のように、トルコの宗務庁の前長官の見解によれば、まるで異端派の扱いである。


Ma Lana Mawlan SiwAllah - ASFA Temiz Kalpler Korosu (TRT)

 

 

「ムルレア・ムルレア(糸車よ、糸車よ)」

《2017年2月19日付け記事の再録》

韓国への語学留学を準備していた86年頃だったと思う。東京の池袋で、韓国映画の会が催され、産経新聞の黒田論説委員の講演と共に、「ムルレア・ムルレア(糸車よ、糸車よ)」という作品が上映された。
早めに出かけて、入口の前に置かれたパンフレットを見ていたところ、近づいて来た若い女性に、「これ、頂いても良いのかしら?」と訊かれ、「ええ、良いと思いますよ」と答えた。
交わした言葉はこれだけで、彼女の姿も直ぐに見失ったが、私の脳裡には、その会話と彼女の印象が深く刻み込まれていた。 
1年半ほど過ぎ、ソウルの延世大学語学堂に通っていた私は、休日に地下鉄で東大門の辺りまで出掛けた。
そして、電車がウルチ路駅の辺りまで来た頃になって、目の前に何処か見覚えのある美しい女性が立っているのに気がついた。
私は彼女の様子をチラチラ窺いながら、必死に何処で会ったのか思い出そうとしたけれど、結局、それが日本だったのか、韓国だったのかも思い出せないまま、彼女は二つぐらい先の駅で降りて行った。 
翌日、進級後の新しい教室に入った私は、驚きで心臓がとまりそうだった。地下鉄の彼女が目の前に座っていたのである。
ようやく落ち着きを取り戻してから、『なんだ、何処かで見たと思ったのは、語学堂だったのか?』と考えたその刹那、電撃が走ったかの如く、突然、全てを思い出した。それは「ムルレア・ムルレア」の彼女だった。
多分、相当感情が高ぶっていたのだろう。私は思い切って彼女に話し掛け、地下鉄で出会ったと伝えた。
彼女は、私のことなど全く記憶になかったようだが、お互い何処へ行ったのか聞き合ったりして、なんとか会話を成り立たせることができた。 
しかし、調子に乗って、「ムルレア・ムルレア」の一件を持ち出したら、驚いた彼女の顔から笑みが消え、「それって、もう2年ぐらい前の話じゃありません? なんでそんなことまで覚えているんですか?」と当惑した表情になり、用事を思い出したと言い残して、その場を離れてしまった。 
高ぶっていた感情が一気に冷やされた所為か、頭の中が随分涼しくなって、以後、語学堂にいる間、周囲の女性たちを意識することはなかった。
まあ、意識したところで、的外れを繰り返して、辺りを寒くしただけに違いないから、あれで良かったのかもしれない。

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幸せなクリスマス?

今朝、夜勤から帰って朝食を取り、1時間半ほど横になったら幸せな夢を見た。

私は暗い夜道で自転車を走らせている。ライトが故障して前が良く見えずに困っていると、後ろから自転車に乗った女性が近寄ってきて前を照らしてくれた。

夢の中の私は、その女性が誰であるのか解っていて、「ありがとう」と言いながら振り返る。そこで目が覚めた。不思議なことに、その後でいくら考えても誰だったのか思い出せない。カーテンの隙間から入り込む日差しが眩しかった。

それでも幸せな気分だけは残っていて、少し横になったまま束の間の幸福感に浸ってから起き上がった。そういえば、今日はクリスマスである。

「日本のクリスマス」は今日で終わり、明日にはクリスマスツリーの多くも片付けられてしまうらしい。

イスタンブールでは、年明けの6日まで「クリスマス」が続く。間借りしていたルム(ギリシャ人)のマリアさん宅でクリスマスプレゼントを交換し合ったりするのは12月31日だった。

そのためか、クリスマスから年末年始にかけては、イスタンブールにいた頃がとても懐かしく感じられる。

東方正教会アルメニア正教会では、クリスマスミサの期日が異なっていたので、双方のミサへ出かけたりした。

いずれも荘厳な雰囲気の中で美しい讃美歌が歌われていたが、特にアルメニア正教会の賛美歌はたとえようもなく美しかった。クリスマスをまたイスタンブールで過ごすことが出来たら素晴らしい。

 

 

日本の嫌韓・韓国の反日

最近、韓国や中国を嫌う人たちと話して気がついたけれど、彼らは実際に韓国人や中国人と交流して反感を持つようになったわけじゃない。

「日韓の歴史の話とかごちゃごちゃうるさいんだよ」と言っても、それを直接韓国の人から聞いたこともないだろう。おそらく、テレビ番組でしたり顔に説明する「日本の文化人」から聞いたのである。

ひょっとすると、彼らが嫌っているのは、したり顔で偉そうに話す「日本の文化人」なのかもしれない。

BTS等の成功が日本でも大々的に報道されるのは、却って嫌韓を煽ってしまうのではないかという意見も聞かれる。

確かに、あそこまで大袈裟に報じる必要はないように感じた。しかし、25年ほど前は、逆に韓国の成功を殆ど伝えようとしない日本のメディアに私は憤ったりしていたのである。

当時、韓国のメディアは、メジャー・リーグでの野茂投手の活躍に喝采を送っていた。まるで「東洋の英雄」という扱いだった。

ところが、その数年後に、韓国の選手がメジャーで活躍するようになっても、日本のメディアはそれを殆ど伝えていなかった。私にはこの辺りがとても理不尽に思えたのだ。

一方、当時、韓国の若い人たちは、「日本人の成功」を大きく取り上げる自国のメディアに何を感じていただろう? 

私が韓国に滞在していた1988年頃は、それこそ「日本のニュース」が逐一韓国で報じられていた。

しかも、そうやって日本の成功を伝える年配の知識人らは、一方で「反日」を喧伝することにも余念がなかったのである。

反日」を説きながら、自身が「東京帝国大学」の卒業であることを自慢げに話す戦前世代の知識人もいた。

もう少し若い世代で、例えば、故・金泳三元大統領などは、在任中、あれだけ反日を主張していたのに、退陣すると早稲田大学客員教授になって流暢な日本語を披露したりしていた。

大学生ぐらいの若い人たちが、それを苦々しい目で見ていたのは想像に難くない。

そして今、韓国の社会で指導的な立場にある50歳代の官僚や知識人は、まさにその世代じゃないかと思う。これでは、韓国で反日が強まっているのも当然であるような気がする。

もちろん、巷ではそれほどでもないらしい。相変わらず、料理を始めとする日本の文物は人気があるという。

  

 

神隠し?

《2007年4月15日付けの記事を修正して再録》

上記の駄文に、高校時代の思い出を一つ書いたけれど、果たして自分はあの三年間でいったい何を学ぼうとしていたのか、とんと思い出すことができない。

まずどんな本を読んでいたのかさっぱり思い出せない、というより本は殆ど読んでいなかった。

授業で何を学んだのか、これもなかなか思い出せない。授業中はとにかく良く寝ていた。

まあ、安らかに寝かせてくれる先生だけではなかったけれど、入学と同時に居眠りばかりしていたから、じきに寝ていることが常態であると思われてしまったのだろう。

ある日、そういう風に諦めて何も仰らない先生の授業でスヤスヤと眠っていたところ、突然、頭に衝撃を感じて目を覚まし、何ごとかと思って前を見ると、普段は温厚なその先生が手に棒を握り締め、ワナワナと震えながら私の顔を睨んでいるのである。

「えっ!?」と思い、先生が教壇に戻って授業が再開された後、隣の奴に「い、いったい何が起こったの?」と訊いたら、「お、お前、もの凄いいびき掻いておったぞ」と呆れていた。

部活は柔道部に入って、お荷物部員となったけれど、さすがに道場では居眠りなどできるはずもない。

ところが、ある日、ウトウトと深い眠りから覚めて、周囲の状況を窺うと、そこはどうやら道場のようであり、柔道着姿の先輩が上から見下ろしている。

私は思わず「いかん! ついに道場でも居眠りしてしまった。これは大変なことになるぞ」と大いに焦ったものの、体が直ぐには言うことを聞かない。どうしたのかと思ったら、要するに、寝技で締め落とされていたのである。それが解ると妙にホッとした。

さて、いつのことだったか、昼食を取った後に教室でぐっすり眠ってから目を覚ますと、教室にいるのは私一人、辺りには誰も見当たらなかった。

「あれっ?」と思って、隣の教室へ行くと、そこももぬけの殻。それから3~4の教室を覗いて人っ子一人いないことが解り、「どうしたんだろう?」と首を捻りながら職員室へ行ったところ、がらんとした職員室はシーンと静まり返っていた。

「いったい何が起こったんだ?」と、今度は隣接する寮まで走って行ったが、寮にも全く人影はなし。空っぽの大食堂に佇み、教室で眠りにつく前の状況を一生懸命に思い出しながら、何が起こったのかを冷静に考えようとしたけれど、その日は朝から普段と全く変わらない一日であり、特別なことは何一つ思い当たらなかった。

それから、ふと考えて、未だ体育館の様子を見ていなかったことに気がついたので、のそのそ歩いて体育館の方へ赴き、重い鉄の扉をよっこらしょと開けて見たら、そこには全校の生徒・教職員が集まっていて、壇上では何だか偉そうな人が偉そうに喋っているところだった。

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ヴィルヘルム・バックハウス最後の演奏?

《2007年4月12日付けの記事を修正して再録》

クラシック音楽で、「どの曲には誰の指揮が良い」なんていう付け焼刃の知識は、殆どが高校時代に同級生の友人から得たものである。

友人は御両親が音楽の先生であり、子供の頃からクラシック音楽に慣れ親しんでいたため、実際、なかなか造詣が深かったんじゃないかと思う。

ある日、学校の昼休みに校内放送でモーツァルトの40番をやっていたので、「これ誰の指揮だか分かる?」と訊いたら、「うーん、これはワルターじゃないかなあ」と言うから、最後まで聴いて曲を紹介するアナウンスに耳を傾けると、これが正しく「ブルーノ・ワルター指揮のコロンビア交響楽団」だった。

「凄いもんだなあ」と驚いて見せたら、「実を言えば、ワルターの振ってる40番は今日始めて聴いたんだが、あの演奏にはワルターの芸術性がにじみ出ていたよ」なんて言うのである。

これにはますます驚いてしまったけれど、どうやらワルターの演奏は、どの曲にもワルターらしい特徴が現れるらしい。

この友人が、ある晩、寮の私の部屋に来て、持参したカセットテープを私のラジカセにかけ、「これはベートーヴェンピアノソナタテンペストだ。85歳のバックハウスが最後に録音した演奏であり、バックハウスはこの一週間後に世を去っている。既に技術的には惨憺たる状態でミスタッチも目立つが、なんというか魂に訴えかけてくるような凄まじい演奏だよ」というように解説をしながら、心して聴くように命じる。

それで暫く大人しく聴いていると、横から彼が「どうだ、感動しないか?」と訊いてきたけれど、初めて聴く曲で他の演奏と比較のしようもないし、別段何も感じなかったので、その旨伝えたところ、尚も「比較する必要はない。これは感性の問題なんだ。なにか感じるはずだよ」と感じない奴は鈍いんだと言わんばかりである。

それでも、結局、感じることはなかったから、はっきりそう言うと、彼は急にゲラゲラ笑い出し、「良いんだ、それで良いんだよ、感動しなかったお前を褒めてやる。このピアノを弾いているのは俺なんだ。でも、ああやって説明したら、結構、本当に感動しちゃう奴がいたから困ったよ」。

まあ、理由はなんであれ、何かに感動するのは悪いことじゃないのだろう。

「ベートーヴェンのロマンス」

《2014年12月10日付け記事の再録》

2014年の9月頃じゃないかと思うが、ネットに「ベートーヴェンは、なかなか艶福家だった」などという記事が出ていた。
ベートーヴェンは、独身のまま一生を終えたので、あまり女性にはモテなかったのではないか、恋焦がれながら、結局ロマンスを成就できなかったのではないか、と言われていたけれど、実際はそうでもなかったようである。
それどころか、当時の音楽界では、トップスターと言って良い存在だったから、非常にモテて、艶聞には事欠かなかったという説もあり、結婚しなかったのは、相手がいなかった為じゃなくて、どうやら多すぎた為だったらしい。
まったくふざけた話だ。私はそれまで、ベートーヴェンの「ロマンス1番」といった甘美なメロディを聴きながら、『これはロマンスに縁のない男が、有りもしない夢を追って作った曲だ』と信じて、幾度も涙を流してきた。『ロマンスなんてものを実体験で知っている奴には、この曲の本当の味わいは解るまい』なんて得意になっていたくらいである。
まあ、良く考えてみれば、音楽とか文学とか碌でもないことやっている奴らには、恋の道にも長けた痴れ者が多い。ベートーヴェンもその中の一人だったに違いない。これでは、「今まで流した涙の半分ぐらいは返してくれ!」と叫びたくなる。

しかし、“英雄色を好む”じゃないけれど、組織の長に立つような男には、ロマンスぐらいないと困るかもしれない。自分を省みて思うが、なんでも望んだら成就させる“気”が無ければ、長なんて務まらないだろう。
でも、音楽やるのに“政治力”までは必要無さそうだから、たまには“ロマンスに縁の無い作曲家”がいても良いんじゃないかと期待していたが、やはり“一芸に秀でる者は大概の芸に秀でてしまう”ようである。指揮者とかやっている人たちみたら“政治力”も凄そうだ。
ベートーヴェンは、56歳で死んでしまっているし、最晩年にも名曲を残しているらしい。才能が枯渇した後も生き長らえて、“政治力”の方が際立つようにならずに済んだのではないだろうか。


BEETHOVEN - Violin Romance No 1 in G Major, Op 40 - HENRYK SZERYNG/Royal Concertgebouw/Haitink.