メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

報道の事実性(1988年:ソウル)

《2014年10月16日付け記事の再録》

ソウルの延世大学語学堂に通っていた88年、多分、オリンピックが始まる1ヵ月ぐらい前じゃないかと思う。同じ教室の日本人受講生の方から、「新聞の取材に協力して下さい」と持ちかけられた。
承諾して詳しく話を聞いてみると、どうやらその方も、同じく語学堂に通っている日本人記者から頼まれたらしい。「オリンピックを前にした韓国人大学生の意見を聞く」というのが取材の趣旨であり、協力といっても、下宿の大学生に意見を書いてもらうだけで良いそうだ。
「その記者の方の周囲には韓国人の大学生がいないのですか?」と訊いたら、「なかなかねえ、韓国人の大学生と親しくしている人達もいないのよ。記事にはその大学生の実名も載せなければならないし・・・」という話だった。 
その日、下宿へ戻ると、早速、学生たちに取材の趣旨を伝え、意見を書いてもらえるように頼んだ。すると翌朝には、もう二人の学生が、意見を書いた原稿を持って来てくれた。
一方の原稿は、A4の用紙一枚半ぐらいにびっしり「オリンピックの成功を祈る」といった至極穏当な意見が書かれていたが、もう一方は、その倍ぐらいの字数で、「軍事政権が誘致したオリンピックに断固反対・・・」と非常に過激な内容だった。
「これ、日本の新聞に実名と一緒に載るかもしれないよ」と念を押したら、その学生は、「望むところです」と不敵な笑みを浮かべていた。
しかし、新聞の記事には、穏当な内容の原稿が採用された。といっても、それは10行程度の短い記事で、その内の3行ぐらいが「学生の意見」だった。
あの記事の為に、わざわざ意見を書いてもらう必要があったのだろうか。しかも、記事の構成は、キャンパスの様子を見ようと延世大学に赴いた記者が、偶然に出会った学生から意見を聞いたという形になっていた。これは、全く事実を反映していない。
私は原稿を書いてくれた学生に、「すまんなあ。こんな記事になるとは思わなかったよ」と謝りながら、記事を韓国語に訳してみせた。それを聞いた学生は、怒るどころか、「日本の新聞もたいしたことないですねえ」と何だか嬉しそうだった。 
最近、日本で沸騰している「捏造か誤認か」という新聞報道に纏わる議論を聞いていると、一次情報源から取材したかどうかが、非常に重要な問題とされていた。それで、26年前のソウルの記者さんも、意見を述べた人の実名に拘っていたのかもしれない。
しかし、あの学生の“実名”にしたって、記事が作られる過程で、それが実名であると確信できたのは、私以外にいないはずだ。記者の方は、学部に問い合わせて、そういう学生の実在を確認しただろうか? そんな面倒臭いことをするぐらいなら、最初から私に頼むわけがない。
そもそも、実際、キャンパスで偶然に会った学生から意見を聞くのであれば、身分証明書でも見ない限り、その学生が語る“実名”なんて、余り当てにならないだろう。
新聞報道に纏わる議論では、「官僚主義」という批判も出ていたけれど、あの記事の作成過程など、確かに「官僚主義」そのものだったような気がする。