メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アングロサクソン的な政教分離?

トルコでは、政教分離主義を“ライクリック”と呼び表し、これはフランス語の“ライシテ”に由来しているそうだ。
先日、チャヴシュオウル外相は、シリアに政教分離の新体制を望みながら、やはりライクリック(政教分離主義)という言葉を使っていたものの、これはアングロサクソン的な理解に基づく、あるいはトルコが現在適用している政教分離であり、「全ての信仰と思考を自由に活かすシステム」と説明していた。
どうやら、チャヴシュオウル外相も、フランスの“ライシテ”に由来する、かつての政教分離主義は、「全ての信仰と思考を自由に活かすシステム」ではなかったと思っているようだ。
しかし、政教分離と言いつつ、日本も他所から見れば、“神仏の国”かもしれないが、アングロサクソンアメリカなどは、それこそ充分過ぎるほど“キリスト教の国”に思えてしまう。
つまりトルコは、アングロサクソン的な政教分離により、“イスラム教の国”であることを強調しながら、その他の信仰の自由も保障しようというのだろう。
理想を言ったら限がないけれど、現実的にはこれぐらいが、ちょうど良いバランスを保てるような気もする。
また、トルコの場合、かなり熱心にイスラムを信仰している人であっても、何から何まで経典に合わせて生活しているわけじゃない。
まずは世俗的な職場で勤勉に働き、その上で信仰を実践する人たちが、既に世間一般の通念でも“善きムスリム”と見做されているのではないだろうか?
これなら、日本やアメリカの社会に共通する価値観とも変わりがないはずである。
日本では、「ムスリムイスラム教徒」と言うと、なんだか我々とはよっぽど掛け離れた価値観を持つ人たちのように思われてしまうらしいが、少なくともトルコに限って、それほど大きな価値観の隔たりは感じられないと思う。
私は、20年以上トルコで暮らして来て、「人間は何処でもそれほど変わらない」と感じることの方が多かった。私が鈍感だからだろうか? 
でも、例えば、クズルック村の工場のような生産拠点に出向してきた方たちに訊いても、「大きな価値観の隔たり」に驚いたという話は余り聞かないような気がする。
もちろん、ごく少数とはいえ、ややこしい思想にとらわれてしまった人たちがいて、彼らの言動は非常に目立つ。しかし、こういう人たちは、日本でも何処でも同じように存在しているはずだ。