メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

目のやり場に困る

男は皆“狼”だからと言うわけでもないだろうが、2011年の2月には、コンヤ大学神学部のオルハン・チェケルという教授が、「ローブ・デコルテを着ている女性は、強姦されても文句が言えない」などと発言して物議を醸したことがあった。
当時、ミリエト紙にコラムを書いていたヌライ・メルト氏(女性)は、この一件を「“生物”と強姦」と題して、コラムに取り上げている。
メルト氏は、イスラム主義者として知られるアリ・ブラチ氏が、チェケル教授を擁護しながら、「女性たちが、挑発するような服装で出歩くことは、強姦の弁明にはならないものの、原因になっている・・・」と説明したのに対して、以下のように論じていた。
「おそらく、アリ・ブラチによれば、人間は“生物”なのである。・・・・・つまり、神はあたかも人間を生物としてこの世に放ち、この生物は敬虔な信仰を持てば行儀良くなるが、さもなければ“獣”になってしまうのだろう。

しかし、イスラムに限らず全てのアブラハムの宗教において、人間は“高貴な創造物”である。その為、行動に責任を持たなければならない。人間は高貴さを保たなければ、獣以下の存在へ投げ出されるかもしれないが、獣にはなり得ない」
3年半前に読んだ時も、私には、この上述の部分が特に興味深く感じられた。
私らのような俗物にしてみれば、「人間は敬虔な信仰を持てば行儀良くなるが、さもなければ“獣”になる」という説は、多少なりとも理解できる。しかし、「人間は“高貴な創造物”である」と押し付けがましく言われたら、ちょっと引いてしまう。
メルト氏は、あまり宗教色のない家庭に育ち、成人後、大分経ってから、イスラムへの理解を深めたようである。ラディカル紙にコラムを書いていた頃は、毎年のように、イスラムの犠牲祭の意義を解り易く説いていた。

私はそれを、何度もここで引用しながら、自分も繰り返し考えて、その意義を少しでも理解しようと努めた。
でも、「“生物”と強姦」に関して言えば、メルト氏は、それほど難しくない話をわざわざ難しく説いているような気もする。
トルコでは、かなり敬虔なムスリムであっても、女性の「自分を美しく見せたい」という欲求まで否定しようとする人は、あまりいないだろう。ということは、密かに、ある程度なら女性の“挑発”を認めているのではないかと思う。
なにしろ、非常にイスラム的と言われるエルドアン大統領でさえ、エミネ夫人との馴れ初めを「目と目が合って電気が走った」などと表現してしまうのである。

 だから、ブラチ氏らの要求は、「度を越した“挑発”は止めてくれ」ぐらいのことなのかもしれない。
クズルック村の工場でも、男子従業員から、女子のジーパンを禁じて欲しいという要望が出て驚いたことがある。理由を訊いたら、ヒップラインが際立つぴっちりしたジーパンは、目のやり場に困るというので、ちょっと笑ってしまった。
確かに、クズルック村に限らず、トルコではぴっちりしたジーパンで、男の目を楽しませてくれる女性が多い。しかも、日本と違って、スタイルが非常に良いから、過剰に楽しみを感じてしまう場合もある。歩道を歩きながら、自然と目線が下がってしまって困ったりする。

クズルック村の辺りは、かなり保守的な地域だったが、あの“ぴっちりジーパン娘”たちには、いくらか“挑発”の意志があったに違いない。この“挑発”と保守的な慣行の板挟みにされた男連中も少し可愛そうだ。
そういえば、日本から業務で来た方が、企業や官公庁などのオフィスで働く女性たちの服装について、「あれでは目のやり場に困る」とか、「ファッションショーのつもり? 仕事をする気はあるの?」と批判気味に語っていたのを思い出す。
私は、ああいう女性たちを見ると、以下の話が頭に浮かんで、なお困る。