メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

男は皆“狼”なのだ

キリスト教では、“マタイ福音書”にも、以下のような記述があり、男が性的な欲情を懐くこと自体、悪と看做されているのかもしれない。
「『すべて欲望をもって女を見るものは彼の心のうちですでに彼女を犯したのである』と。もし右の目があなたを迷わすならば、それを取り出して投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナ(地獄)に投げ込まれないほうがよい。・・・」(中央公論「世界の名著」-聖書)
これが現代でも適用されたら、私など毎日“強姦罪”で逮捕されていなければならない。その前に、目やら右手やら、身体のあらゆる部分が取り出されて死んでしまうだろう。
イスラムに、こういった過激な厳しさはないような気がする。男の性欲は当たり前に認められている。それで、女性は男の欲情を扇動しないよう慎まなければならないらしい。
その為、スカーフを被ったり、ベールで顔を覆ったりするわけだが、これについても色々な解釈があるようだ。「中公クラシックス」のコーラン日本語訳で、その“光の章”を読むと、「・・顔おおいを胸もとまで垂らせ・・」とあって、なんとなくベールが正解のように思えてしまうけれど、これを「頭おおい」とする日本語訳もあるという。
トルコの宗務庁の見解は、ベールではなく、スカーフを被れば良しとしていたのではないかと思う。いずれにせよ、これは宗務庁の見解であって、法的な拘束力はない。却って、以前はスカーフの着用が法的に制限されていたくらいである。
トルコの社会をざっと見渡すならば、既に、かなり敬虔なムスリムの間でも、スカーフを被るとか被らないではなく、男の欲情を激しく扇動する格好でなければ良いという理解になっているような気もする。イスラム神学部の女性教授ですら何も被っていなかったりする。
つまり、「男が欲情するのは仕方がないから、女性の皆さんも余り扇動するのは止めて下さいね」ぐらいの感じじゃないだろうか。ここでも、イスラムは、一歩進んで解決しようとするのではなく、一歩退いて、とにかく安寧秩序を守ろうとしているように思える。
さて、10日ほど前、イスティックラル通り裏のフランス横丁にある出版社を訪ねた。用事が済んで外へ出たら、目の前をもの凄い美女が通り過ぎて行く。フランス横丁だから、そう連想したのか、とてもフレンチなブロンズの髪の美女だった。
半袖で紺色のポロシャツを着て、スカートも特に短いわけじゃなく、それほど肌は露出させていない。また、身体のラインを際立たせるようなピチピチのシャツやスカートでもなかった。

要するに、ごく当たり前な服装だったが、顔もスタイルも抜群に美しかった。それに、何とも言えず男を欲情させる雰囲気があった。
出版社は、階段状の小路の両脇に洒落たカフェが並ぶフランス横丁のちょうど中間ぐらいにある。イスティックラル通りへ出ようすれば、その階段状の小路を上がって行かなければならない。私は目の前を通り過ぎたフレンチ美女に続いて、階段を上がり始めた。
目の前にフレンチ美女の臀部が見えて、それが歩みと共に自然に揺れる。わざとフリフリさせなくても、スタイルが抜群であるため、その揺れが非常に欲情をそそる。スカートはぴっちりじゃないが、肉感的なラインを完全に覆い隠してしまうほどでもなかった。
それから、ふと気がついて、両脇のカフェのテラスに座っている男たちの様子を覗ったら、その殆どが、獲物を狙う狼のような凄い目つきで、彼女の後姿を追っていた。“マタイ福音書”なら、彼らは全て強姦の罪でゲヘナ(地獄)に身を落とすだろう。
あれには、なかなか殺気立ったものを感じた。もう一つ、おそらく、彼らにしてみれば、獲物の後ろにぴったりくっついている東洋人は、非常にけしからん、とても忌々しい奴である。それが、余計に殺気を感じさせたのかもしれない。
よくモダンな政教分離主義者たちは、「イスラムの連中が、肌の露出の多い女性を見る時の目つきは凄い。性を抑圧しているから欲情が溜まっているんだろう」などと揶揄しているけれど、あそこに座っていた男たちは、多分、殆ど政教分離主義者だろう。少なくともイスラム傾向はなかったに違いない。
イスラムだろうが何だろうが、もの凄い美女を前にしたら、男は皆狼になってしまうのである。イスラム的な人たちが拘っている「肌の露出云々」も、おそらく余り関係がない。もの凄い美女は、それほど肌を露出させる必要なんてないのだ。
まあ、「男は皆狼なんだから、女性の皆さんもほどほどにしてね」という発想は、そんな悪くないかもしれない。