《2008年6月13日付け記事を修正して再録》
いつだったか(2006~8年頃)、敬虔なムスリムが多く集まるイスタンブール・ファティフ区のチャルシャンバという街へ出掛けた時のことである。
茶を飲みに入ったカフェで、3人の敬虔なムスリムに囲まれ、望みもしないのにたくさんイスラム教の話を聞かされてしまった。
一人は、鍔のない白い帽子を被り、ダブダブのズボンにサンダルというタリバン・スタイルで、モジャモジャと顎鬚を蓄えているものだから、なんとなく老けて見えるけれど、実際は30歳ぐらいだったかもしれない。紳士的な物腰で英語もかなり話せるようだ。多分、その辺りを本拠地にしている教団のメンバーだったのだろう。
少し後れてカフェに入って来て、このタリバン風の青年から丁重に迎えられた40歳ぐらいの男性は、こざっぱりとした身なりで髭をきれいに剃り、教養を感じさせる紳士的な雰囲気があって海外の事情に通じ、一度日本を訪れたこともあるという。こちらは、別のモダンな教団の関係者ではないかと推察した。
もう一人は、本人が明らかにした40代前半という年齢が俄かには信じられないくらい年老いて見える朴訥としたおじさんで、おそらく最低限度の教育しか受けていなかったのではないかと思う。望みもしないイスラム教の話をたくさん聞かせてくれたのはこのおじさんである。
「イスラムについて御存知ですか? イスラムは素晴らしい宗教なんです」と語り出したこのおじさん、外国人の異教徒に至高の宗教イスラムを説明するのは初めての経験だったに違いない。喜び勇んで語り始めたものの、直ぐに不安そうな表情を浮かべ、隣に控えているお歴々の顔色を窺いながら、「私が説明しても良いんでしょうか?」と尋ねた。
お歴々はにっこりと微笑み、「ええ、どうぞ、どうぞ貴方が説明して下さい」と促していたが、もともと初対面の日本人にくどくど宗教の話などするつもりはなく、喜々としているおじさんに満足してもらえればそれで良かったのかもしれない。
おじさんは、万物を創造された偉大な神について説明する際、「子供を作る為には精子が必要ですよね。この精子を作ったのは神です」と先ずは精子の話から始め、その後も、よっぽど精子が好きなのか、何度となくこの話を繰り返した。
まあ、おじさんには何人かお子さんがいて、嬉しそうに家族の話もしていたから、未だかつて精子を有効に使った験しがない私のような馬鹿タレと違い、精子の有難味を良く御存知なんだろうけれど、余りしつこく繰り返されると、何だか如何わしい話でも聞かされているんじゃないかと思ってしまう。
おじさんも、自分の説明に不安を感じたらしく、途中で「このまま続けても良いでしょうか?」とお歴々の顔色を窺い、また「どうぞ、どうぞ」と促されていた。
お歴々は内心うんざりしていたかもしれないが、最後までおじさんの話を遮ったりしなかった。私はそこに何ともいえない優しさを感じた。
日本と比べると、一般的に、トルコではどんな人たちも恐れず自分の意見を表明しているような気がする。世間の圧迫を感じないからだろうか?
もちろん、厳しいビジネスの世界では見られないけれど、まだまだ民衆の生活には、少々ピントのずれた意見も聞いてくれる優しさが充満していて、「仲間」とみなされた場合、多少のミスは見逃してくれるようなところがある。
クズルック村の工場で通訳をしていた頃、工場の仲間たちは『こいつに恥をかかしちゃ可哀想だ』とでも思うのか、私が『今の訳で通じたろうか?』と疑問に感じても、皆、解ったような顔して何も言わない。あれには困った。
しかし、この優しさは、身内への甘さとも言えるから、これが競争社会の発展を妨げた要因の一つであるかもしれない。