メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

サイト・ファイクの帽子

2014年の5月、ブルガズ島のサイト・ファイク・アバスヤヌク博物館を初めて訪れた。
トルコ人の御夫婦が、日本から来たお客さんを案内するのに同行したのである。いずれも50代と思しき御夫婦は、教養水準も生活水準も高い政教分離主義者だった。
この博物館は、作家のサイト・ファイク・アバスヤヌクが住んでいた家であり、書斎等が保存され、遺品の数々が展示されている。
1906年に生まれ、1954年に亡くなったサイト・ファイクは、詩人のナーズム・ヒクメットと共に、左派・政教分離主義者の間では非常に人気が高い。
サイト・ファイクが被っていた帽子は、遺品の中でも特に重要視されていて、単独のショーケースに恭しく展示されていた。
オスマン帝国が西欧化を進めて以来、トルコ人男性の被り物は、大きく2回変わったそうだ。
まず、進歩的な西欧主義者が、ターバンを止めてフェス(トルコ帽)を被るようになり、その後、共和国革命と共に、このフェスも禁止されて、西欧風な帽子の着用が奨励されたという。
つまり、サイト・ファイクの帽子は、共和国の革新と西欧化の象徴でもあるのだろう。
政教分離主義者であり、非常に西欧的な雰囲気の奥さんは、日本人のお客さんに、ショーケースを指し示しながら、「サイト・ファイクは、いつもこれを被っていたそうです」と言って微笑み、とても誇らしげな様子だった。
しかし、日本の方は、それがどういう意味を持っているのかさっぱり解らなかったに違いない。ショーケースには何の変哲もない帽子が一つ置かれているだけだ。
御夫婦がイスタンブールで、お客さんを案内したのは、このサイト・ファイクの博物館に限らず、オスマン帝国末期以来の西欧的な遺構や、現代風な名所ばかりである。
イスラム的な古いオスマン帝国の象徴と言えるスルタンアフットの案内は、私一人に任せて、彼らは姿も見せなかった。
モスクやスカーフを被った女性の群れなど、とても恥ずかしくて、外国から来たお客さんとは、その場を共にしたくなかったのかもしれない。
もちろん、当時のエルドアン首相に対しては、あからさまに憎悪を表わしていた。エルドアンの出現は、モダンで西欧的なトルコにとって、恥ずべき汚点と思っているような気配さえ感じられた。
不思議に思えたのは、御夫婦がギュレン教団に対して、わりと好意的な見解を述べていたことだ。「毒をもって毒を制す」という意識だったのだろうか? 
尊師はともかく、メンバーには、装いや雰囲気が西欧的で洒落た人が多いとか、欧米での評価が高いとか、そういった理由も考えられる。「帽子」を始めとして、外見のイメージには、なかなか強い拘りを見せていた。
もっとも、教団の旧ザマン紙本社に行ったら、働いている女性の殆どは、しっかりスカーフを被っていたのだが・・・

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