メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

イスラムは頑張らない宗教

15年ぐらい前だったか、イスタンブールで、ある程度日本語を解するトルコ人女性が、日本人観光客から「イスラム教はどういう宗教ですか?」と訊かれて、「頑張らない宗教です」と即答していた。私は今でもこれに『上手い言い方だなあ』と膝を叩きたくなる。
おそらく彼女は、日本人を“頑張り過ぎ”と思っていたのだろう。その為に肯定的な意味で「頑張らない宗教」と答えたようだ。
イスラム教は、あまり高邁な理想など掲げたりせずに、人間の弱さをそのまま認めながら、その弱い人間たちが寄り添って平和に暮らしていける社会を説いているような気がする。
しかし、これが結果的に、もの凄く頑張ってしまうキリスト教の西欧から打ちのめされ、平和を奪われる要因となってしまったのかもしれない。
それで、トルコのイスラム的な識者の中には、その西欧に追い付き追い越そうとする意気込みからか、プロテスタントに見られる禁欲的な刻苦勉励の精神を称賛し、ムスリムも信仰の力によって、同様の精神を得られるかのように説く人たちがいる。
実際、現在のイスラム的なAKP政権の人たちを見ていると、そうやってしゃかりきに働いている印象があるけれど、何処の社会でも、あのレベルに達する人たちは同様だろうから、参考になるのかどうか良く解らない。
でも、キリスト教の世界だって、中世の暗黒時代にはどんより停滞していたらしい。宗教の教義の如何に関わらず、何かのきっかけで一定の条件が揃えば、社会は活動期に入って、人々は頑張り出すのではないだろうか? そもそも、各宗教の教義なんて、一部の識者以外は、誰も良く解っていないはずである。
一方、先日のサバー紙で、エムレ・アキョズ氏は、西欧が発展した要因の一つに“表現の自由の獲得”を挙げていた。
また、9世紀にアッバース朝が科学的な分野で隆盛期を迎えたのは、当時、主流を成していたムタージラ派に“思想の自由”があったからだと説く識者もいる。ムタージラ派には、後のキリスト教自由主義神学を凌ぐ自由な学問体系があったらしい。
そういうムタージラ派の講釈を宗教科の先生だった友人からも大分聞かされたけれど、殆ど忘れてしまった。友人は、ムタージラ派がその後もイスラムの主流として続いていれば、イスラム世界が西欧の後塵を拝したりする必要はなかったと残念そうに話していた。
驚いたのは、私がちょっと揚げ足を取るつもりで、「でも、そんな自由な考え方が行き渡ってしまうと、誰も神を信じなくなるんじゃありませんか?」と訊いたところ、友人は平然と「うん、私もそう思う」と答えて、ニヤッと笑ったのである。トルコでは、既に宗教の分野も含めて、かなり自由の領域が広がっているのだろう。
もちろん、“脱宗教”を主張する政教分離主義者の人たちは、こんな話で納得しないに違いない。しかし、一部の政教分離主義者が、「宗教やめて、神を信じなくなれば発展する」程度のお手軽な考えで、酒飲んで浮かれたりしているのを見ていると、何だかこちらのほうが、よっぽど“頑張らない宗教”の人たちであるような気もする。