2014年の8月、イスタンブールで在留日本人の方に「クリミア・メモリアル教会」を案内していただいた。
この方は業務でトルコに出向中のエンジニアで、熱心なプロテスタントのクリスチャンだったが、「トルコにいると、クリスチャンに対する偏見が感じられない」と話していた。日本では少なからず感じられるそうだ。
確かに、私も含めて多くの日本人が、キリスト教に限らず、宗教全般に対して、ある種の偏見を懐いているかもしれない。
「宗教を熱心に信じている人=少し変わった人」という認識が結構はびこっているのではないだろうか?
しかし、その方も、トルコへ来る前は、多少なりともイスラムに対して誤解があったらしい。それで、「我々クリスチャンが、こういった誤解を解くために、率先して動かなければならない」と言うのである。
実にありがたいことだと思った。私がこうしてトルコでの見聞を書き続けているのも、トルコやイスラムに対する誤解が甚だしいと感じているからだ。
しかし、力のない矢はいくら放ったところで何処にも届かない。直ぐそこに落ちてしまう。私はその落ちた矢に囲まれて意気消沈している。
例えば、「イスラムは政教一致の宗教」と言うけれど、それに近いことをやっているのはサウジアラビアとその周辺にある国々ぐらいだろう。
トルコはオスマン帝国の時代から西欧化と政教分離を進めて現在に至っている。この政教分離が覆ってしまうのは妄想の世界のお話だと思う。
一方のサウジアラビアは、オスマン帝国の辺境に過ぎなかった。それが今や「スンニー派の盟主」などと呼ばれている。そして、この過激で退嬰的なイスラムの国を支えて来たのは米国に他ならない。
ところが、その米国の元CIA局員が今になって、サウジアラビアは「貧しいイスラム諸国へ不寛容なワッハーブ派の教義を広める、石油の財力に依存した地政学的な冗談」であると言い放っている。
「歴史的な深みに乏しい」とか「重要な地方文化も、深い知的な伝統も、学問あるいはテクノロジーや発見もない」とか、ボロカスに貶しているのだから呆れてしまう。
「冗談は300年の歴史しか持たない不寛容な貴方の国じゃないのか」と言いたくなる。
東欧のボスニアヘルツェゴビナも国民の殆どはイスラム教徒である。ロシア連邦内のタタールスタン共和国もそうだろう。いずれも政教分離の国であり、人々は至ってモダンな生活を営んでいる。
イスラムと言えば、サウジアラビアやエジプトばかり取り上げられて、こちらが話題になることは殆どないようだ。なんとも理不尽な感じがする。
フィギュアスケートのザギトワ選手もイスラム教徒だというけれど、これも余り知られていないだろう。
彼女は日本のラーメンが好きでも、食べられるのは鶏肉だけで、豚と牛は駄目らしい。そこに宗教的な理由があるのかどうか解らないが、もしもそうだとすれば、ロシアのイスラム教徒としては結構信仰があるほうなのかもしれない。