メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「911」から20年 /ムスリムと西洋 /ヒロシマの仇?

あの「911テロ事件」から20年が過ぎた。

事件は、陰謀説も含めて、様々に論じられてきたけれど、私にはパキスタンの物理学者パルヴェーズ・フッドボーイ氏による「ムスリムと西洋」という論説が非常に興味深かった。読んで直ぐに強い印象を得たのは、学習院大学教授の田崎晴明氏による日本語訳の素晴らしさもあったと思う。

ムスリムと西洋 ─ 9 月 11 日の後 ─パルヴェーズ・フッドボーイ (Pervez Hoodbhoy)】*翻訳は学習院大学理学部の田崎晴明

フッドボーイ氏が教鞭を取っていたパキスタンの大学では、一部の学生たちが事件を喜んでいたらしい。それは以下のように伝えられている。

「一部の学生は何も考えず攻撃を喜んでいた。 ・・・<中略>・・・ 合衆国の政策とは何の関係もない一般市民を残忍に殺戮するのが残虐行為であると学生たちに納得させるのに、二時間にわたる絶え間ない熱い議論が必要だった。」

これはトルコでも同様だった。

私はアダパザル県クズルック村の邦人企業の工場で事件の第一報を聞き、翌日、トルコの新聞を見てぶっ飛んだ。

一面に大きく「ついにヒロシマの仇を討った!」というような見出しが躍っていたのである。

記事は、テロを敢行したのが日本赤軍であるかのように伝えていたけれど、そこには凶行を非難するというより、「ついにやってくれたか日本人よ!」といった快哉に近い雰囲気があったと思う。

その日、工場では、私に手を差し伸べながら、「祝福します! 日本赤軍というのは、日本の愛国者なんですね!」と嬉しそうに言う者まで現れ、どう応じて良いものやら困ってしまった。

ところが、多分その日の内に、「日本赤軍の仕業」というのはフランスの通信社による誤報であると明らかになり、イスラム過激派の関与が囁かれはじめたため、今度はトルコの人たちが困惑の態となり、不安そうな表情を見せていた。

これで我々日本人は、やれやれと一息ついたけれど、この事件が起こる前も、私はトルコ人から、「日本はいつヒロシマの仇を討つんですか?」とか「次のパール・ハーバーはいつですか?」なんて真面目に訊かれたことが何度もある。

あの頃、トルコでは12月8日頃になると、必ずと言って良いほど、映画「トラ・トラ・トラ」を何処かのテレビ局が放映していた。

これには、親日感情というより反米感情が大きく関わっていただろう。だから、憎きアメリカをやっつけてくれるなら、ヒーローは日本じゃなくても良かったに違いないが、何と言っても、日本は、あの通り立派な「実績」を持っていたのである。

イスラム過激派の犯行が報じられると、在欧米のイスラム教指導者らは、イスラムの擁護に努めたという。

「反発をおそれて、合衆国、カナダ、ヨーロッパのムスリム共同体の指導者のほとんどは、ツインタワーでの残虐行為について予想通りの反応をした。 これは、本質的にふたつの部分からなる。 第一に、イスラム教は平和の宗教であるということ。 第二に、9 月 11 日にイスラムは狂信者にハイジャックされたということ。」

フッドボーイ氏は、このようにイスラム教指導者らの反応を伝えた上で、イスラム教に関する考察を明らかにしている。

イスラム教は ─ キリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教、あるいは他のすべての宗教と同様 ─ 平和についての宗教ではない。 それは、戦争についての宗教でもない。 どんな宗教も、その宗教の優越性とその宗教を他者に押しつける神聖な権利についての絶対的な信念を扱うのである。」

この部分は、「何故、宗教を信じるのだろう?」といった駄文に何度も引用させてもらった。

そして、フッドボーイ氏は、「9 月 11 日にイスラムは狂信者にハイジャックされた」という第二の反応に対しては、次のように反論している。

「仮に、イスラムが、何らかの比喩的な意味で、ハイジャックされたのだとして、それがおこったのは 2001 年 9 月 11 日ではない。 それは、十三世紀頃におこったのだ。 ざっとまわりを見回せば、イスラムは未だ当時のトラウマから立ち直る必要があることがわかる。」

イスラムが被ったトラウマについて、トルコの識者らは、十三世紀のモンゴル侵攻ではなく、その数世紀後に起こった西欧による植民地支配から論じることが多い。それは、十三世紀の段階で、トルコ系民族は未だイスラムの表舞台に立っていなかったことに起因しているかもしれない。(トルコ系民族はモンゴルと共に侵攻した側にいた?)

ところで、フッドボーイ氏の論説は、トルコの政教分離等に全く言及していない。これは何故だろう?

トルコでは、フッドボーイ氏の「イスラムと科学(狂信に対する知性の闘い)」という著作が、1993年にトルコ語訳で出版されているけれど、それほど話題にはなっていなかったようだ。

1993年当時、トルコの政教分離主義は、イスラムの価値を殆ど認めない脱宗教的なものだったのに対し、この著作はイスラムの価値を認めながら、科学との関係を論じているようだから、トルコの知識層はあまり共感を抱かなかったのだろうか?

同様に、フッドボーイ氏も、トルコの政教分離主義的な知識人とは論じ合う余地を見出せなかったのかもしれない。

しかし、現在のトルコの政教分離であれば、双方とも大いに触発されるのではないかと思う。

以下の駄文で紹介した宗務庁長官の見解などは、フッドボーイ氏の論説と通じ合うところも少なくないような気がする。

さて、「ムスリムと西洋」の最後の所で、フッドボーイ氏は(2001年当時から見た)今後の展望を述べているけれど、これは実に的確な見通しだったと思う。

アメリカ人は、また、合衆国の帝国としての力は、すでにその頂点を過ぎていることをも認めなくてはならないだろう。 五十年代と六十年代は、永久に過ぎ去ってしまったのだ。 合衆国の勝利至上主義と国際法の軽視は、ムスリムの間だけでなく、いたるところに敵をつくりだしている。 それ故、アメリカ人も、横暴さをおさえ、この世界の他の人々ともっと同じようにならなくてはいけない。 しばらくの期間、合衆国は超大国であり続けるだろうが、その『超』の度合いがどんどん弱まっていくことは避けがたい。 これには、確たる経済的、軍事的な根拠がある。 たとえば中国経済は年率 7 パーセントで成長しているが、アメリカ経済は不景気を迎えている。 インドもまた急激に成長している。 軍事面を見れば、空軍力や宇宙での優位性は、もはや安全保障を確保するには不十分である。」