先月の“通信”で紹介した「ヤプラック・ドキュム(落葉)」という小説の主人公アリ・ルザ・ベイ、この人物は余り信心深くない世俗主義的な教養人として描かれているものの、事が女性の貞操に至ると、私如きには何とも理解し難い拘りを見せていました。
長男が勤務先の銀行で金を着服して逮捕された時にはそれほど動揺しなかったアリ・ルザ・ベイですが、次女のレイラが既婚の男性と不倫の関係に陥るや、絶望の淵へ追いやられ、精根尽き果ててしまいます。トルコの男たちにとって最も大切な“ナムス(名誉)”を傷つけられてしまったことがアリ・ルザ・ベイには我慢できなかったのです。しかし、私たちの感覚では不倫より何より、銀行で金を着服してしまうことの方がよっぽど大きな問題じゃないでしょうか。
この小説では、アリ・ルザ・ベイが最後に次女と和解しているけれど、今でもアナトリアの東部地方へ行けば、“ナムスヌ・テミズレメッキ(名誉を綺麗にする?)”と言って、“名誉”を汚した女性や相手の男を殺してしまったりすることがあるそうです。
この記事が伝えている事件、無抵抗の女性を撃ち殺してしまうという卑劣極まりない犯行の一体何処が“名誉を綺麗にする”ことなんでしょうか? 逆に、これほど不名誉なことはなかなかないように思えます。一方、殺されてしまった女性は、「相手の男の妾になって村を出て行け」という部族の命令に逆らい、気丈にもその名誉を守ろうとしました。極めて保守的な東部の村々でも、既に女性たちの意識は高まって来ているわけで、これをほのかな希望であると見ることもできるでしょう。
もちろん、イスタンブールで私の周囲にいる男たちは、教養や信仰の有る無しに関わらず、一様にこういった事件を非難しています。ただ、80年前のアリ・ルザ・ベイが見せたような貞操への拘りは、現在の世俗主義者においても、それほど変わっていないかもしれません。貞操などというものは冗談のネタにしかならないほど性の文化が成熟した卑猥な東洋の国から来た私には、どうにも理解できないことがまだまだあるようです。