メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ民族主義の提唱者ズィヤ・ギョカルプはクルド人だった・・・

クルディスタン」の首都などと称されたりもするトルコ南東部ディヤルバクルの出身であるアルタン・タン氏は、ディヤルバクルの多様性を語りながら、「ディヤルバクルのクルド人でトルコ民族主義を提唱した」と言われているズィヤ・ギョカルプの父方はトルコ系だったのではないかと論じていた。

一方、イラク国境に近いハッキャリ県出身のムフスィン・クズルカヤ氏は、8月17日付けハベルテュルク紙のコラムに、「2人の青年トルコ人は、2人ともクルド人」と題する記事で、ズィヤ・ギョカルプとアブドゥッラ・ジェヴデトの業績を取り上げている。

オスマン帝国の末期、「統一と進歩委員会」に関与して、青年トルコ人と呼ばれたジェヴデトとギョカルプは、2人ともクルド人だったと言うのである。

クズルカヤ氏によれば、ギョカルプ自身も「私は自分をトルコ人であると認識している。なぜなら、人の民族性を決定するのは、人種的な要素ではなく、文化と感情だからである」と説き、トルコ系の血筋を主張していなかった。

また、ギョカルプはトルコ民族主義を提唱する以前に、クルド語とトルコ語の文法書を執筆していたそうだ。クルド人のジャーナリスト、ムーサー・アンテル氏は、その文法書を自宅で保管していたが、警察から家宅捜査を受けた際に没収されてしまったという。(アンテル氏は1992年に暗殺されている)

ギョカルプには、クルド部族に関する著作もあり、これは1977年になって、クルド民族主義の支援者であるイスマイル・ベシクチ氏の尽力で出版された。クズルカヤ氏はこれも明らかにしている。

「ズィヤ・ギョカルプはクルド人について調べながらトルコ人を見出した」とクズルカヤ氏は述べている。どうやら、ギョカルプは、クルド人としての立場から歩み出て、トルコ民族主義に到達したらしい。アブドゥッラ・ジェヴデトの思想的な変遷にも、同様の経緯が見られたようだ。

トルコ人化、イスラム化、近代化」を掲げて、トルコ民族主義による共和国の創立に貢献したギョカルプの業績を、クズルカヤ氏は肯定的に捉えているのではないかと思われるが、この100年前の思想に固執してはいないだろう。

PKKが解散し、エルドアン大統領が「トルコ人クルド人、アラブ人」の連帯を呼びかけた際、ハベルテュルク紙(7月16日付け)のコラムに、クズルカヤ氏は以下のように記している。

「ようやく100年に亘った孤独が終わる! 我々は唯一のエスニシティから成り立っていない。トルコ人クルド人、アラブ人と共に一つの大きな民族である。そして、同じ国家の同胞である! ある時期、我々は狭い括弧の中に閉ざされていたが、今やその括弧は開かれた。幕は引き下ろされ、障害は取り除かれた。祖国は一つであり、運命が共有されて、一つの国旗の下にいる。しかし、言葉も異なれば、文化も異なる。今、その相違と再び和そうではないか。共同の祖国で共に暮らし、国を共に統治し、共に発展を遂げ、我々の国を共に守って行こう。」

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