メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

進化論の論争

 日本のメディアでも、トルコの高校教育カリキュラムから「進化論」が外されたことが報じられていた。
屋久島に引き籠ったまま、トルコの現地の様子を見聞できないのは残念だが、ネットの記事等を見る限り、非常に脱イスラム的な政教分離主義者らを除いて、以前ほど激しい反発は起きていないような気がする。
「トルコのイスラム化」「政教分離の危機」を懸念する向きは、ひと頃に比べて大分減って来たのではないかと思う。
もちろん、「進化論」に纏わる論争は、私が1991~2年にかけて生活したイズミル学生寮の中でも闘わされていたくらいで、その後も、時々大きな話題になっていた。
しかし、保守的・イスラム的なAKPが政権に就いて、既に15年も経つため、私にとっては、「進化論」が未だカリキュラムに含まれていた事実の方が意外だった。
かつてトルコでは、「進化論」が「信じる・信じない」といった迫り方で論じられたりして、非常にイデオロギー的な雰囲気が漂い、これにイスラム的な人たちが強く抵抗を見せていた。
例えば、今回の論争で意見を求められた「ノーベル化学賞受賞者」のアジズ・サンジャル氏は、次のように答えたという。
「私はアッラー(神)を信じている。しかし進化は存在する、そして、これは科学のテーマだ。信仰のテーマではない。」

当初、サンジャル氏は、「私はムスリムであり、アッラー(神)を信じている、進化論ではない。」と発言して物議を醸し、上記のように訂正したそうだから、かつてのイデオロギー的な論争の雰囲気を快く思っていなかったかもしれない。
なんとなく、教育カリキュラムから「進化論」が外された背景には、『まずはイデオロギー的な論争を止めて、徐々に科学的な認識として定着させる』という思惑が潜んでいるようにも思える。
それは、以下のイスメット・ユルマズ教育相の弁明にも表れているのではないだろうか?
「・・・進化論の生物学とテクノロジーにおける日常的な適用は、高校の授業で教えられている。ここには、進化論の概念に含まれる“突然変異”“選択”“適応”がある。これらは生物学のプログラムに含まれている・・・」
とはいえ、この教育相の弁明も、なんだか奥歯に物が挟まったような言い方で、とにかく、『政教分離主義者とイスラム主義者の双方を余り刺激したくない』と鎮静化に努めている様子が窺える。
いずれにせよ、現在の世界で、生物学等を学ぼうとすれば、進化論の認識は避けて通れないはずだ。そのため、トルコの大学のカリキュラムは、「進化論」を従来通り扱って行くという。それが、高校のカリキュラムでは、うやむやにされてしまったようである。
ひょっとすると、こういった“曖昧”で“うやむや”な解決方法は、トルコの社会の大半を占める保守的な人たちに多く見られる傾向であるかもしれない。
2006年6月のコラム記事で、タハ・アクヨル氏は、天動説から地動説への変更を以下のように説明している。
コーランは太陽と月の動きについて語っているが、かつてはこれをプトレマイオスの理論に従い“天動説”と解釈していた。今日の神学者は近代天文学の観点から解釈している。これはノーマルなことだ。もとになる知的情報に従って解釈が変わるのは当然であるばかりか必要なことでもある」
どうやら、キリスト教が、凄まじい理論闘争を経て、数多の血を流した結果得た大転換を、トルコのイスラム的な人たちは、「もとになる知的情報に従って解釈が変わるのは当然である」とあっさり受け入れてしまったらしい。
しかし、西欧が近代文明を築いたのは、この凄まじい理論闘争のお陰だったような気もする。
merhaba-ajansi.hatenablog.com