メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

犠牲祭・・・

2002年に、親イスラムのAKP政権が発足して以来、トルコでは様々な宗教行事が盛んになって来たと言われていますが、犠牲祭に関しては、年々規制も厳しくなり、逆の方向を辿っているような気がします。

91年、イズミルで初めて犠牲祭を迎えた時は、モダンなアルサンジャクの繁華街の裏通りでも、平気で羊がばっさりやられていたのに、今や、都市部では屋外の生贄屠殺が全面的に禁止されてしまったため、ばっさりという光景もなかなか見られなくなってしまいました。

信心深い人たちも、これには格別抗議の声を上げていないようです。結局、なんだかんだ言いながら、誰も進んで生贄を切ったりしたくはなかったじゃないかと思います。血を見るのは誰でも嫌なんでしょう。 

それで最近、イスタンブールでは、羊より牛が生贄として良く売れるらしい。5世帯ぐらい集まって牛を買い、誰か代表者が一人だけ、所定の場所で屠殺に立会い、金を出し合った世帯に肉を配って終わり・・・。これでは、ただ肉をたくさん食べる日じゃないでしょうか? 

人間、宗教に教えられなくても、普通であれば、人殺しなんて出来やしないはずです。人どころか、猫一匹殺せやしません。猫の死骸を目の前に放り出されたら、大概の人は、ギャッと悲鳴を上げて退散するでしょう。 

人間は、嘘もなかなかつけません。嘘をつけばドキドキしてしまうため、嘘発見器というのが可能になるのではないかと思います。ドキドキするのは嘘をつくのが嫌だからじゃないでしょうか。 

しかし、人間、嘘の一つもつけなければ、恋愛も出来ないような気がします。

私は女性と話すと、昔からドキドキして仕方なかったけれど、あれは、嘘をつくからかもしれません。

「映画でも見に行きましょうか?」って、ああいうのは殆ど嘘です。最初から映画を見たいなんて、これっぽちも思っていない。肝腎なのは、その後の展開でしょう。この程度でもドキドキして声が上ずってしまうから、その後の展開とやらも巧く行った験しがありません。 

高校の同級生に、友人から紹介してもらった彼女と初めて喫茶店で会った時、「週末など、どうしていますか?」と訊かれて、「はい、ソープランドに良く行きます」と答えた男がいるそうです。

そしたら、彼女は何も言わずに黙って席を立って行ってしまったらしい。彼としては「正直こそ正義」と思ったんだろうけれど、これはもう犯罪的な正直じゃないでしょうか。立ち去った彼女はどんなに無念だったか・・・。

この場合は、「嘘こそ正義」だったはずです。なんて言いながら、私もこれに近いことをやり続けてきました。 

こうしてみると、人間は宗教の教えが無くても、人殺しも出来なければ嘘もつけない、なかなか罪なんて犯せない。では、宗教は何のために有るのかと考えてしまいます。

あれはやっぱり一つの妄想を皆で信じてみることに意義があるんでしょうか? そうすることによって立ち位置をはっきりさせる。『私はここにいるんだぞ』と・・・。そして、厳しい世の中を結束して逞しく生き抜く・・・。

だから、平和な島国だった日本には宗教が根付かなかった・・・。

トルコの人たちは、長い宗教の歴史を持っているから、その取り扱いにも慣れているような気がします。原理主義のようなものへ簡単に陥ったりしない。その心配は、これに慣れていない我々日本人に向けたほうが良いかもしれません。