メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

徴用工像とハングリー精神

《2017年3月12日付け記事の再録》

湾岸戦争の頃、日本の雑誌で、ある文化人が、ホンダの創業者・本田宗一郎の無鉄砲さについて述べた記事を読んだ。
今、はっきり思い出せないが、「本田氏の手は、自ら誤って打ち下ろしたハンマーの打撃で、歪に変形していた。・・・その無鉄砲さによって、戦後の日本は復興を成し遂げた」というような話ではなかったかと記憶している。
おぼろげな記憶によれば、筆者の文化人は、無鉄砲な頑張りが見られなくなった日本は、湾岸戦争で痛めつけられたイラクより、もっと早く衰退してしまうかもしれないと憂えていた。
無鉄砲なサダム・フセインを見ると、イラクには、まだしも希望が感じられたらしい。
この記事を読んで、私は、『それを言うなら、イラクじゃなくて韓国ではないか』と思った。当時の韓国には、そういう無鉄砲な勢いがあったからだ。
しかし、戦後の復興を成し遂げた日本と韓国では、無鉄砲な根性を支えた動機が、少し違っていたような気もする。
本田宗一郎は、とにかく自動車が好きだった自分の夢を追求したのであって、誰かを恨んで発奮したわけじゃないだろう。アメリカのことなど全く憎んでいなかったと思う。
一方、韓国の人たちの無鉄砲を支えた動機の中には、反日も含まれていたかもしれない。
88年に訪れたチョナン市の独立記念館では、日本人の残虐性を際立たせた恐ろしい展示物の数々に息を飲んだ。あれは、人々を発奮させるための仕掛けではないかとさえ思った。
もちろん、韓国の人たちは、個々の日本人に恨みを抱いているのではなく、過去の歴史に拘っているだけだが、その歴史に由来する恨みをエネルギーに変えようという意識はあったはずである。
とはいえ、韓国の人たちも、近頃はかつての無鉄砲さが影をひそめて、なんだか随分大人しくなってしまったらしい。スポーツ界にも一時の勢いが感じられない。
そもそも、あの慰安婦像の穏やかな佇まいが、私には良く解らない。独立記念館で度肝を抜かれた者からすれば、まるで少女漫画のような優しさである。
実際、韓国の人たちは、慰安婦像ではなく「少女像」と呼んでいる。
大きなお世話かもしれないが、あれでは発奮もしなければ元気も出ないだろう。熱海のお宮の松で、寛一がお宮を文字通り足蹴にしている「寛一お宮の像」の方が、よっぽどインパクトがある。
そこへ今度は、「徴用工像」のニュースが飛び込んで来た。「日本人に鞭で打たれ、歯を食いしばる徴用工」といった凄まじい図柄を想像して、『いよいよ韓国も復活するか』と奇妙な期待感に胸が膨らんだ。
ところが、その「徴用工像」の写真を見て、思わずずっこけてしまった。
ガリガリにやせ細った徴用工は、歯を食いしばるわけでもなければ、何かを恨んでいる様子もなく、全てを受け入れて死を待つかのように、厳かな雰囲気を漂わせている。
結局、日本でも韓国でも、無鉄砲な根性を支えていた最大の動機は、何と言っても「貧しさ」だったに違いない。
腹が満たされると、人間はなかなか無鉄砲になれないようである。歴史的な恨みをエネルギーに変えるのも難しくなってしまう。
これは私たち日本人にとって有難いことだけれど、優しくなった韓国の人たちが、北朝鮮の攻撃に、果たして対抗できるのか心配になる。
ところで、北朝鮮の三代目、金正恩のきちがいじみた無鉄砲さは、いったい何に起因しているのだろう? 人民は腹ペコでも、彼の腹は充分に満たされているはずだ。
それこそ、恨み憎しみ、恐怖といった様々な感情がごちゃ混ぜにされた狂気が、あの大きな腹の中に詰まっているとしたら恐ろしい。