メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

MIT(トルコ国家情報局)の前長官エムレ・タネル氏

先日、ネットで色々検索していたら、MIT(トルコ国家情報局)の前長官であるエムレ・タネル氏が、アルジャジーラトルコ語版のインタビューに応じた2016年11月9日の記事が出て来た。

 トルコ人女性ジャーナリストの問いに答えたタネル氏は、自身も現長官のハーカン・フィダン氏と共に拘束されそうになった「2012年2月7日の事件」や「2016年7月15日クーデター事件」について語っている。

 これまでのトルコ政府の発表と特に変わる所がない内容だけれど、いくつか興味深い発言もある。

 まず、ディヤルバクルの出身でクルド語に堪能というタネル氏だが、ディヤルバクルは軍人だった父親の赴任地であり、クルド人エスニック・ルーツを持っているわけではないようだ。

 しかし、クルド人らに対して反感はなく、それがオスロでPKKと交渉を進める要因になったという。「外国がクルド問題を道具に使うのを防ぎたかった」とも述懐している。

 タネル氏によれば、このオスロ交渉は、情報局が提案し、政府を説得して始められたらしい。当初は議会の承認を得て、交渉に入りたかったものの、選挙を乗り越えなければならなかった政府が難色を見せたそうである。

 イムラル島の特別刑務所に収監されているPKKの元指導者オジャラン氏も議会の承認による進め方を望んでいた。もしもそうなっていれば、「2012年2月7日の事件」は起きていなかっただろうとタネル氏は悔やんでいる。

 PKKの幹部と話し合った際、「500人の正規メンバーはどうなるのか?」「我々は拘束されるのではないか?」と訊かれたので、タネル氏は「ノルウェーで暮らしなさい」と勧めたが、彼らは生活費を心配したらしい。

 「彼らは60歳になっていた。引退はなく、死がある。彼らの前に将来図が示されることはなかった」とタネル氏は語っているけれど、多くの若者たちを死に至らせた組織の幹部に、老後の心配までしてやる必要があったのか、なんとも割り切れないものを感じてしまった。