メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

コロナ騒ぎの迷走/人間の「死」と「生」

コロナ騒ぎが相変わらず迷走を続けている。いったいどうなってしまったのかと思う。

感染者が増えたと騒がれているものの、重篤者・死亡者は殆ど増えていない。その多くは無症状者であるという。インフルエンザにも不顕性感染というのがあるそうだから、こちらのウイルスの有無も検査すると、「感染者」はかなりいる可能性があるだろう。それなのに、何故、コロナだけ大騒ぎしているのかさっぱり解らない。

結核にも発症しない保菌者は少なからずいるらしい。私も福岡では、結核が判明して隔離されたネパール人就学生と送迎車の中で共に過ごしていたから、保菌者になっているかもしれない。

もちろん、私には医学的なことなど解らないけれど、コロナ騒ぎを死亡者の少なさから冷静に見ている人たちの論説の多くが、「危機的」という反証の例も挙げているのに対し、さながら危機を煽っているように思えてしまう人たちの主張では、大概、反証の例が無視されている。そのため、どうしても前者の方に説得力を感じる。

例えば、以下の論説は非常に解りやすく納得が行くように思われる。とはいえ、医学的な基礎知識のない私に是非を判断するのは難しいかもしれない。

私にも辛うじて判断できるのは、「新しい生活様式」などというものが如何に息苦しく、社会に殺伐とした雰囲気をもたらしてしまうかということだ。若い人たちに、いったいどうやって恋愛しろと言うのだろう? 3K職に対する風当たりが強くなってしまう恐れも気になる。 

死亡者が若年層にも及び、社会的なインフラが維持できなくなるレベルに達したら、さすがに考えなければならなくなるが、死亡者の多かった米国やイタリアでも、そのレベルには至っていないどころか、米国は既に社会生活を正常に戻す方向に転じているらしい。

日本では、コロナの感染拡大を抑え込むより、人々に根付いてしまった恐怖心を如何に和らげて行くかが重要な課題になってしまいそうな気がする。これには死生観の問題も絡んで来るだろう。「運が悪くて死ぬ」のではなくて、「運が良くて生きている有難さ」を思えば、少しは楽になるかもしれない。

今、トーマス・マンの「魔の山」を読んでいるけれど、結核サナトリウムで臨終の迫った患者に対してキリスト教の塗油式を執り行う場面が出て来る。思わず取り乱してしまう患者を、ベーレンス顧問官は「そんな真似はやめてもらいましょう!」と怒鳴りつけるのである。当然、延命のための処置など受けないまま、患者は粛々と死を迎えてしまうに違いない。果たして、司祭の姿を見て取り乱してしまうほど意識のはっきりしている患者を、医師であるベーレンスは何処で「臨終間近」と見極めたのだろう?

魔の山」は100年ぐらい前の西欧を舞台にした小説だが、この100年の間に、人々の「死」と「生」に対する認識は驚くほど大きく変化したようだ。まだ意識のはっきりしている患者を「臨終間近」と決めつけてしまうのも極端なことのように思われるけれど、現代の「死」の認識も逆の方に極端であるかもしれない。

コロナの感染者が増えてしまったため、今月も鹿児島の施設にいる母の面会は叶わなくなってしまったが、母は3月の時点でも相当にボケが進んで回りの状況が余り解らなくなっているように見受けられた。あの状態なら塗油式に取り乱してしまうこともないだろう。

母がアルツハイマーを発症して以来、私は「そう簡単に死ねなくなった」なんてつまらないことを考えたりしていた。私の写真を見たりした母が「マコトはどうしたの?」と姉に訊く。「もう死んだじゃない」と言われても、3分経ってまた同じことを訊き、「死んだって言ったでしょ!」と返される。そんな会話があったら嫌だなとかボンヤリ考えたりした。しかし、3月の状態なら、私の「死」も既に認識できないような気がする。

だからと言って、「もう簡単に死ねる」というわけでは、もちろんないが、あの3月に、カルテの取り違えからなのか「前立腺癌」を宣告された時はうろたえた。高額な治療費など支払えるはずもないから、『いよいよ死に際を考えなければならなくなったか』などと取り留めもないことを思い巡らしたりしたのである。

あれには、その1週間ぐらい前、職場の同僚のお母様が72歳という若さで亡くなっていた影響もあっただろう。乳癌が発覚して入院後、僅か2週間だった。密かに『侍のようなお母様だな』と感じ入ったりした。この私が「侍のように死ねる」とも思えないけれど・・・。

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