メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

コロナ騒ぎの収束と今後の世界

上記の駄文にも記したように、トルコでコロナは既に収束したと見做され、トルコの社会はほぼ平常に戻ったようである。

日本でも、ようやく4月から他のインフルエンザ等の感染症と同じ扱いになるらしい。しかし、何故、「今から」ではなく「4月から」なのだろう?

4月までに何か病理学的な進展であるとか変化があるとは思えないので、2ケ月の猶予期間を設けた意味が良く解らない。まさか「心の準備」のために必要とされているのだろうか? 

それでは、コロナが社会の心の問題であったということになってしまいそうだ。実際、コロナに対する過剰な恐怖には、心の問題といった側面があったようにも思える。

私にはこの騒ぎが「コロナ禍」と言えるほどの災難であるとは考えられなかった。そのため、「コロナ騒ぎ」という言葉を使い続けて来た。

当初より、『このぐらいの死者数で、何故、これほど大騒ぎになっているのか?』という違和感があった。日本では死者も少なく、それも殆ど高齢者や他の疾患を持っていた人に限られていたからだ。

約6千万の人口で2万3千人の死者が出たイタリアなどで非常事態宣言が発令されたのは理解できるようにも思えたが、例えば、1936年に7千万ほどの人口で、結核による死者が14万5千人に達した日本のことを考えたら、それほどの数字ではないかもしれない。

1936年当時には、日本に限らず世界中で結核が猛威をふるっていたけれど、何処の国も海外渡航禁止やロックダウンといった対策を取っていない。もしも、そんな対策が取られていたら、植民地経営など出来なくなって世界の歴史が変わっていただろう。

戦後、米国を中心とした国際秩序の中で繁栄した所謂「先進国」では、戦争や事故、疫病といったリスクが減って行き、21世紀に入ってからは、それこそ人々がそういったリスクを忘れてしまう段階にまで至っていたようだ。

しかし、「先進国」以外に目を向けたら、その手のリスクは殆ど減っていなかったのかもしれない。

2014年に、人口2千万ほどのシリアでは、7万6千に及ぶ人たちが戦争により命を失っていたのである。戦後、所謂「先進国」の繁栄は、そういった犠牲の上に成り立って来たのではないだろうか?

現在も、アフリカなどでは、コロナより結核マラリアの方が遥かに脅威であるという。そのため、米国等の製薬会社がコロナワクチンを盛んに売り込もうとしても、人々からそっぽを向かれているらしい。

また、アフリカには、内戦の続いている国もあるが、米国等の軍需産業は、ここにも兵器を盛んに売り込んでいる。いったい、なんという世の中なのだと思う。

しかし、最近はウクライナ戦争でも、アフリカの各国がロシアに対する制裁に同調しない姿勢を見せるなど、様々な変化が現れているという。

「先進国」以外の国々が、「先進国」の都合によって維持されてきた国際秩序に対して、いよいよ「ノー」と言い始めたのだろうか?

そういった国々が一致団結して、この怪しげな国際秩序を切り崩そうとしたら、コロナ程度のリスクに怯えていた「先進国」は、もっと恐ろしい本当のリスクに直面しなければならなくなってしまうかもしれない。