メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

韓国の不正と文明/ラテン気質?

最近、韓国の法相に任命された曹国氏の不正が話題になっているけれど、これで私は1997年の韓国大統領選挙にまつわる話を思い出した。 

あの選挙戦の最中でも、与党候補の李会昌氏が子息の兵役を不正に回避させていたことが発覚して、大きな話題になっていた。ところが、当時、大阪でお世話になっていた韓国人の老先生に伺うと、先生は「親が子を想うのは当たり前でしょう」と事も無げに仰ったのである。 

選挙は僅差(40.3%対38.7%)で、金大中氏が李会昌氏を破って当選したものの、与党から李仁済氏も出馬して票割れしていなければ、結果はどうなっていたか分からない。 

李会昌氏も判事出身で、曹国氏と同様に法学の専門家だった。日本ではそういった人物の不正が発覚した場合、致命的な失点になりそうだが、韓国の社会通念は日本と大分異なっているのだろう。「親が子を想うのは当たり前」と考えた人は存外少なくなかったかもしれない。 

論語に「正直者の直躬」という話があった。父親の盗みを証言した子の正直さを称えた人に対して、孔子は「吾党の直き者は、これに異なり。父は子の為に隠し、 子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り」と論じたそうである。 

ひょっとして、儒教文明国の韓国では、この教えが今でもそのまま通用しているのだろうか? いずれにせよ、日本の常識で韓国を推し量ろうとするのは大きな間違いであるような気がする。 

不正と言えば、スポーツの世界でも、韓国は審判に対する不正行為などによって度々取り沙汰されてきた。ソウルオリンピックのボクシングでは、韓国の選手が判定で敗れたところ、選手のコーチがレフェリーに襲い掛かり、「金をやったのに何で負けにするんだ!」と自ら不正を明らかにしてしまう珍事件もあった。 

レフェリーの買収ぐらい、我が子のように愛する選手のためなら許される行為で、コーチはそれを不正と思っていなかったのかもしれない。さもなければ、自ら暴露するのは、どう考えても奇妙である。 

まあ、ボクシングの世界には少しダーティーな部分があって、日本はもちろん、本場のアメリカでも「怪しい判定」は結構あるそうだが、まさか自ら不正を暴露したりしないはずだ。 

しかし、南米ラテンのアルゼンチンでは、暴露されるまでもなく、何処から見ても不正が明らかな世界タイトルマッチというのもあった。1993年にファン・マルチン・コッジ選手がコロンビアの選手を迎えた防衛戦である。 

この試合の模様を伝えるYouTubeの動画には、「敵地ではKOしなければ勝てないとは言うが、敵地では完全に相手を失神させなければ勝てないのか・・・」と書き込まれているけれど、コッジ選手の第2ラウンドのダウンは、身体を硬直させて昏倒するような倒れ方で、一時的に失神していたのではないかと思う。 

そのコッジ選手をベネズエラのレフェリーが異様に長いカウントと試合再開を遅らせることで正気に戻らせたうえ、タイムキーパーが20秒以上も早くゴングを鳴らして救ってしまったのである。 

続く第3ラウンドと第4ラウンド、タイムキーパーは諦めずに15~20秒ぐらいラウンドを短くしてコッジ選手の回復を助け、結局、第7ラウンドでコッジ選手がKO勝ちしている。 

韓国でも、これほどスキャンダラスな試合はなかったに違いない。あったら、さすがに大きな社会問題になっていただろう。 

スポーツ界の不正は南米ラテンばかりではなく、2006年にイタリアのサッカー界で「カルチョ・スキャンダル」なるものが発覚して大騒ぎになったらしい。それを「ラテン気質」と言って良いのかどうか解らないが、韓国を「東洋のラテン」と呼ぶ人もいる。 

イギリスやドイツの人たちも、そういった「ラテン気質」を論ったりしているようだけれど、イタリアやスペインを同じ西洋の国として認め、違いを承知のうえで付き合っているのではないだろうか? 

東洋は歴史的な条件が異なっているので、これと同じようには語れないが、外交上の問題は別として、私たちもお互いの違いを認識しながら付き合えば良いだけじゃないかと思う。 

また、「ラテン気質」が論われたとしても、イタリアは西洋文明揺籃の地であり、それなりの敬意を得ているだろう。韓国も儒教の文明国として、日本より遥かに先進していた。 

韓国は李朝の時代、清朝に寄り添うことで武力を半ば放棄し、ほぼ完璧な文民統制による長い平和を謳歌した。あれは言うなれば「安保体制」のようなものだったかもしれない。 

日本が、なんとか西欧と渡り合って明治の時代を築けたのは、儒教という煩わしい文明もなければ文民統制もなく、平和な江戸時代にも武人支配が続いたため、要するに「戦い方」を知っていたお陰だろう。 

法治主義的な傾向や、スポーツで割とフェアなところがアングロサクソンなどに評価されているのも、この「武人支配」のお陰であるような気がする。 

脱亜入欧」を唱えた福沢諭吉が、当時の朝鮮や清朝の思想家と大きく異なっていたのは、侍という武人の側面を持ち合わせていたところではないか? それも「居合の達人」であり生半可な武人ではなかったという。 

けれども、武士道とか騎士道とか言って、如何に美化しようと、それはお互いの暴力的なところを評価し合っているだけかもしれない。やくざにだって仁義はある。「堅気の衆」という非戦闘員にもなるべく手は出さないようにしている。 

私は福岡でネパールやインドの人たちと接しながら、「いったいどちらが文明的なのだろう?」と考えていた。しかし、武力に限らず経済でも「戦い方」を知らなければ、厳しい国際社会で生き残れなくなってしまうのは、今も明治の時代と変わっていないと思う。


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