最近の韓国では、サムスンの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長の逮捕にも驚いた。連行する際、手錠をかけて縄で縛っていたのは、見せしめの為だったに違いない。
韓国の財界人は、日本に比べて、あまり社会的な尊敬を得られていないような気がする。日本にも、贈収賄等で逮捕された財界人は少なくないけれど、その業績まで否定されるような扱いは受けていなかったと思う。
私は子供の頃に、トヨタの創業者である豊田佐吉の伝記を読んだ覚えがある。小学校や中学校の教科書でも、その業績は称えられていたはずだ。松下幸之助や本田宗一郎の業績も、同様に称えられ、社会的な尊敬を集めている。
ところが、韓国の場合、李副会長の祖父であり、サムソンを創業して「漢江の奇跡」の立役者となった李秉喆(イ・ビョンチョル)でさえ、それほどの尊敬を得られているとは考えられなかった。
もっとも、「漢江の奇跡」のもう一方の立役者である朴正煕大統領も、たいして尊敬されていないのだから、それ以上望んでも無理があるだろう。
トルコでは、かなり左派的な知識人も、亡くなった財閥のトップに哀悼の意を表して、その業績を称えている。
勝手に妄想するならば、イデオロギーを扱う知識人がやたらと尊敬される韓国の社会は、現実から隔絶された別の世界を作って、常にそこで理想を求めようとしている。
ひょっとすると、イデオロギー闘争に明け暮れていたという李朝時代から、ずっとそうだったのだろうか? いつの時代でも、現実はあまり見たくなかったのかもしれない。
ところで、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」なんて言い方が日本にはあるけれど、これは韓国の人たちに通用しないような気がする。「先生」は、いつでも何処でも尊敬の対象になっていそうである。
しかし、トルコの人たちには、充分過ぎるほど通用するだろう。ホジャ(先生)という言葉が、場合によっては、嘲笑の意で使われていたりするくらいだ。
クズルック村の工場に、もじゃもじゃの顎鬚とダブダブのズボンで、原理主義者を気取った青年がいた。
信心深い村の人たちも、あれには呆れて、「ホジャ」と呼んでからかっていたが、何となく、そこに『あいつは、ちょっと浮世離れしている』といった意味合いを込めていたような気もする。
「マコト、ホジャの話はまともに聞いちゃ駄目だよ。直ぐ『人類は月に行っていない』とか言い出すから・・・」なんて注意されたこともあった。
青年は、工場の作業員で、もちろん先生でも何でもなかったけれど、実際の「先生」、あるいは「学者」と呼ばれるような人であっても、現実とかけ離れた理屈ばかり並べていると、『あの先生、プラティック(実用的)じゃねえよなあ』などと陰口を叩かれたりする。
プラティックの語源は、フランス語の「pratique」らしい。トルコの人たちは、日常的な会話の中で、この言葉をとても良く使っている。
優れた財界人は、それなりに尊敬されているが、それは「なかなか実用的な役に立っている」ということであるかもしれない。エルドアン大統領への敬意もそんな感じがする。
だから、実用的な価値を失った政党は、たちまち次の選挙で落とされてしまう。