メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

人間にも社会にも適応力はあるはずだけれど・・・

先日、韓国で社会的な通念の違いに驚かされた思い出を記したけれど、共に語学堂で学んでいた在日韓国人の友人たちも、やはり色んな面で日本と韓国の違いに驚いていたようだ。
友人の多くは、2世か3世だったが、韓国の社会を見る視線は、私ら日本人とあまり変わらなかったのではないかと思う。彼らはわざわざ韓国語を学びに来ていたくらいだから、多少、民族を意識していたはずだけれど、その感覚は殆ど“日本人”になっていたのかもしれない。
22年ぐらい前、名古屋で、韓国語を学ぶつもりもない在日韓国人3世の青年から、免許証を見せてもらったことがある。それには以下のように記されていた。
「木村 コト 李栄浩」(仮名)。通名が苗字だけだったのか名前まで記されていたのか、はっきり覚えていないが、“コト”という片仮名の異様さは忘れられない。なんだか、アイデンティティーをネタに、彼らが茶化されているように感じた。
それから免許証を手に取って、「イ・ヨンホ!(李栄浩)」と読上げたら、「それ、なんですか?」と青年が驚くので、私は「君の名前じゃないか!」と呆れて語気を強めたけれど、彼はさして堪えた風でもなく、「はあ、そうなんですかあ? 勉強になりますなあ」と笑っていた。
在日韓国人の多くは、2~3世代で、瞬く間に日本の社会へ順応してしまったようだ。1世を除いて、韓国語を話せる人は非常に少ない。自分の名前を言われても解らないのは、それほど珍しいことでもなかっただろう。
人間は、文化や習慣等の異なる外国へ行っても、そこで生活して行かなければならなくなったら、なんとか適応しようと努める。さしたる財産もなければ、背に腹は変えられないから、経済活動を最優先にして、言語を始めとする文化の維持は二の次、あるいは忘れ去ってしまう。そんなところじゃないかと思う。
もっとも、韓国や中国の人たちの場合、なんだかんだ言って文化的には近いし、宗教が問題になるわけでもないので、順応し易かったのだろう。
例えば、強いイスラムの信仰を同じくする人たちが集まったら、そう簡単には順応してくれないかもしれない。
1998年、私は名古屋の近郊で、トルコ人ばかりが集まっているアパートを訪ねて、彼らと2日間共に過した。彼らは皆、黒海地方オルドゥ県の出身であり、トルコ人の中では比較的に信心深いほうだったが、長くても数年という短い期間の割には、なかなか巧く日本の生活へ適応しているように見えた。
食事も普通のファミレスへ行って、豚肉のないメニューを選んで食べていた。当時は、イスラム教徒が安心して食べられるハラール認定の食堂など殆どなかったと思うが、無ければ無いで、柔軟に対応しながら、イスラムの信仰を守っていたのだろう。
そもそもトルコで、私は“ハラール認定”の食堂など見たことがない。98%がイスラム教徒の国だから、外国人がやっている店に行かなければ大丈夫ということなのかもしれないが、最近は、敬虔そうにスカーフを巻いた女性たちが、韓国料理屋で食事していたりするから驚く。彼女たちなら、何処へ行っても、ある程度順応できるに違いない。
しかし、トルコのような政教分離の国ではなく、イスラム法を適用している国から来た人たちが集まっている所の状況はどうなのか、私には良く解らない。それでも、周囲の日本人と混在する環境で働いて生活するのであれば、やはり背に腹は変えられないから、なんとか適応しようとするのではないだろうか? 

ハラール認定の食堂などをやたらに揃えたら、その適応能力を奪ってしまうような気がする。
「背に腹は変えられない」なんて下品な言葉を使ってしまったけれど、何処の社会でも、人間は大概の場合、思想信条よりも経済活動を最優先にしているはずだ。イデオロギーや宗教で飯が食えてしまう人は、それが経済活動になっているだけだろう。
人間を国に置き換えても、それほど変わりはないかもしれない。オスマン帝国は、西欧が経済力で世界をリードし始めると、何とかそこへ合わせようとして、自分たちの宗教を柔軟に解釈しようとした。
ところが、適応力に欠ける人間が社会の隅に追いやられ、時として過激な行動に出るように、オスマン帝国の辺境で時代に適応できなかった人たちの中から、ワッハーブ派などという時代に逆行した過激思想が生まれたのではないか。
当たり前に歴史が進行していれば、彼らは時代に取り残されて勢力を失うか、否応無く適応力を身につけて行かなければならないところだった。
しかし、このワッハーブ派を、最初はオスマン帝国に対抗させるため、その後は石油資源のために、英国や米国が、その適応力を奪ったまま支援して太らせてしまったところから中東の悲劇は始まったような気もする。

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