メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

クルド人らしい顔? 

1ヵ月ほど前、市内でタクシーに乗ったところ、運転手さんに「俺、日本人に似ていないか?」と訊かれました。

実を言えば、私も乗り込んだ時から、そのモンゴロイド顔が気になっていたので、興味津々に「貴方、何処の出身?」と問い返したけれど、おそらくはタタール人とかトルクメン人に違いないと、そういう回答を待ち構えていたのです。ところが、返ってきたのは意外な地名でした。
「ディヤルバクル」
「えっ? 貴方、クルド人?」
「もちろん」
「貴方の御両親もやはり日本人に似ているの?」
「うーん、普通にクルド人らしい顔だよ。でも、母の目は少し吊り上がっているかな」
「すると、御先祖に日本人らしいのがいて、その遺伝子が、貴方のところに出て来たのだろうか?」
「そういう遺伝の話は知っているよ。何世代か前にそういう先祖がいたんだろうね」
中央アジアから来たトルコ系の部族とか?」
「そんな話は伝わっていないねえ。うちは元々クルド人の家系だよ。でも、トルコ人の嫁はいたかもしれないね」
それから、この運転手さんと、トルコ人クルド人の関係について暫く話してみたけれど、「トルコ人は東から入って来て、方々に種を残しながら西へ移動して行ったわけだから、我々の先祖と交じり合っていても不思議じゃない」なんて、なかなか教養のありそうな話もしていました。
しかし、彼は、トルコ人が混ざり合った民族であることを強調しながら、それに比べてクルド人はかなり純粋性を保っていると主張して、「クルド人らしい顔」の定義を並べていたものの、そのいずれもが彼の顔には該当していませんでした。

村上春樹のトルコ紀行「雨天炎天」を読むと、「トルコでは西欧的な風貌の人たちが東洋的な風貌の庶民を支配している」といったような表現があり、非常に不愉快な感じがしたけれど、村上春樹は、トルコについて何の予備知識もないまま、まっさらな目でトルコを見て歩いたと始めから断っているので、あくまでも受けた印象を述べたということなのでしょう。
実を言うと、私も同じような印象を受けたことがあります。1992年に始めて、イスタンブールからアンカラまで航空機を利用した際、同乗していたトルコ人が「西欧的な風貌の白人」ばかりだったので少し驚かされました。ロビーでフライトを待っている間、彼らが本当にトルコ人なのか確かめようと近くに寄って、その会話に聞き耳を立ててしまったほどです。当時は、富裕層でなければ、国内線など利用していなかったのでしょう。
今でも、富裕層が集まっている場面では、「西欧的な風貌の白人」が若干多いように感じることがあります。
これは何のデータも根拠もない“感じ”なので、余り真に受けてもらっても困りますが、そういった風貌の人たちは、バルカン半島からの移民、あるいはエーゲ海地方やトラキア地方といった西部トルコに多いのではないでしょうか。東部や南東部へ行くと、やはり黒い髪や多少肌の浅黒い人が多くなるかもしれません。前述のタクシー運転手さんも、クルド人の特徴として“浅黒さ”を挙げていました。(本人はそうでもなかったし、白い肌にブロンズの髪のクルド人もいますが・・・)
また、富裕層にエーゲ海地方やトラキア地方の出身者が多いのも事実であるような気がします。豊かな農地に恵まれ、生活環境が良いので、昔からこの地方の人たちは教育水準も高かったはずです。

ひょっとすると、人々の話す言葉や宗教が変わっただけで、ビザンチンの時代からオスマン帝国を経て今に至るまで、その状況は余り変わっていないかもしれません。
これに比べて、山が多く農地に恵まれていない東部や南東部は、生活環境が厳しく、地理的にも昔から中央の支配を受ける“辺境”という位置づけではなかったでしょうか。

アブドゥッラ・ジェヴデトは、オスマン帝国の末期に西欧化を提唱した知識人(南東部出身のクルド人)ですが、東部や南東部の近代化を図るため、この地域に、教育水準の高いバルカン半島の人々を入植させるという改革案を発表して轟々たる非難を浴び、今でも過激な西欧化主義者という評価を受けているようです。
アブドゥッラ・ジェヴデトが、クルディスタンの独立を求める人たちと袂を別ったのは、祖国の西欧化を望んだからかもしれません。ズィヤ・ギョカルプやイスメット・イノニュの苦悩もそこにあったのではないかと思います。

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