メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ人の伝統

先日、知人から面白い話を聞きました。
黒海地方に元アルメニア人の村があり、その村は何世代か前にアルメニア正教(キリスト教)からイスラムへ改宗して“トルコ人”の村になったものの、バプテスマ(洗礼)のようなキリスト教の伝統はそのまま続けられていたそうです。
この村の家族が、イスタンブールへ出て来て、そこで子供が生まれると、彼らは近所のモスクへ行き、導師に「子供が生まれたから洗ってやって下さい」と相談したけれど、もちろん導師には何のことやら解りません。
「えーと、どなたかお亡くなりになったのですか?」
「いや、生まれたんですよ!」
「???」
まあ、知人もこの話を村の家族や導師から直接聞いたわけじゃないみたいだから、何処まで本当なのか、ちょっと疑わしい気もします。村のモスクの導師は、生まれた子供たちに“洗礼”を施していたのでしょうか?
しかし、ビザンチンの時代、アナトリアにはキリスト教が広まっており、イスラムは、10世紀以降、新参のトルコ人によってもたらされたのだろうから、昔は至るところで似たような過程が見られたのかもしれません。しかも、そのイスラムをもたらしたトルコ人自体、中央アジアシャーマニズムからイスラムへ改宗して間もなかったため、アナトリアイスラムには様々な要素が入り込んでいたようです。アナトリア中部に多いアレヴィー派のイスラムに、シャーマニズムキリスト教の影響を指摘する声も聞かれます。
いつだったか、ラディカル紙でテュルケル・アルカン氏のコラムに、次のようなエピソードが紹介されていました。17世紀のオスマン帝国で、現在の宗務庁長官に相当する“シェイヒルイスラム”の地位に就いていたヤフヤ(1553年~1644年)という人物は、「偽善的な二面性はやめなさい、君たちは酒場に来ると良い、ここには偽善も二面性もない・・・」といった詩を詠んでいたそうです。
このように、当初、オスマン帝国イスラムは非常に緩やかなものだったのが、アラブ圏を統治下に入れてから徐々に戒律を重視するようになったと言われています。
前述のコラムで、テュルケル・アルカン氏は、「・・・今日、宗務庁の長官がこんな詩を詠むのは可能だろうか? ヤフヤはこれを詠んだが為に、吊るされもしなければ、切られもしなかった」と述べているけれど、実際、今のトルコでは、如何にモダンなイスラム勢力であっても、信仰者の飲酒を認めていないし、原理主義的なイスラム勢力は「宗務庁がイスラムを薄めている」と現状を批判しているくらいだから、長官が飲酒を奨励するような詩を詠んだら大変な騒ぎになるでしょう。
もちろん、余り信仰心のない世俗主義者や、世俗的にイスラムを信仰している人々、アレヴィー派の中には、当たり前にアルコールを嗜む人たちがたくさんいるものの、さすがに、宗務庁の長官が酒場で一杯やっている姿は想像できません。オスマン帝国の時代には、カリフを兼ねていた皇帝でさえ酒を飲んでいたそうですが・・・。
現在、イスラム運動を展開している人たちは、盛んに“伝統への回帰”を訴えているけれど、これがいつの時代のどの伝統を指しているのか良く解らないような気もします。それは“伝統への回帰”というより、世俗主義への反発といったものではないでしょうか。
事実、このイスラム運動は、かつて反世俗主義を唱え、アラブ圏やイランに見られる抑圧的なイスラムを称賛していたから、その後、如何にモダンな展開を見せたとしても、世俗主義の立場としては一抹の不安を拭いきれないはずです。
こういった不安は、クルド人世俗主義者も共有しており、一時、クルド民族的な主張のため、トルコからの亡命を余儀なくされていたクルド人作家の故メフメド・ウズン氏は、2003年の12月にラディカル紙でネシェ・ドゥゼル氏のインタビューに答えて、次のように語っていました。
「トルコは、イランやイラク、シリア、アフガニスタンパキスタンのような暗い世界の一部になってはいけません。トルコを欧州と一体化させるためには、まだやることが沢山あります」

 ところが、今、トルコの外交政策は、上記の国々へこれまでにない接近を試みていて、一部では“中東への回帰か?”と取り沙汰されているようです。単なる平和外交であれば良いものの、これでまた世俗主義者の不安は高まるばかりかもしれません。
しかし、こんなことを言ってはなんですが、アナトリアには色んな文明の要素があったから、回帰できるところは何も中東に限らないのではないでしょうか?
そもそも主な要素の一つである“トルコ人”は、もっと東から長い年月をかけて、西へ西へと移動してきました。
「世界の都市の物語・イスタンブール」の単行本には、著者の陳舜臣による附記が添えられていて、この附記に“トルコ人の伝統”とは何かが見事に説き明かされていたけれど、今、これが手元にないため、以下は私の曖昧な記憶によります。
陳舜臣は、トルコ人が移動した先々で、新たに遭遇した文明や文化を受け入れて行った適応力に注目し、そういった革新性こそがトルコ人の伝統であり、その点から見れば、アタテュルクは最も伝統的なトルコ人であると評価していました。一昨日、トルコ共和国は建国86周年を迎えましたが、トルコの人々が、これからもその“伝統”を活かし、さらなる飛躍を遂げることを願ってやみません。