メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

如何に国旗は翻っていようとも・・・

5月19日は、「アタテュルク記念日・青年とスポーツの日」という祝日で、朝、ピクニック行きのバスに乗る為、オスマンベイの韓人教会まで、メジディエキョイからハラスカルガーズィ通りを歩いて来たところ、道の両側は、ビルを覆わんばかりの巨大なトルコ国旗で飾られていた。
トルコでは、普段の日も、翻る国旗を目にすることが多い。東京を1日歩き回って、どのくらい“日の丸”を目にするだろうか? 先月訪れたソウルも、昔に比べたら、随分、国旗が目立たなくなったように感じた。

87年にソウルで暮らし始めた頃は、夕方、掲揚されていた国旗が降ろされる度に、街角のスピーカーから国歌が流れて来て、道行く人々はその間、立ち止まって敬意を表す慣わしだった。
しかし、韓国人の知り合いと歩いていて、国歌が流れて来たので立ち止まったら、彼は「いちいち止まらなくても良いんだよ」と笑い、そのままスタスタ歩いて行く、私もしょうがないからその後を追った。よく見れば、全員が止まっているわけでもなかった。
あれはいつ頃無くなったのだろう? オリンピックが始まった頃には、もうやっていなかったような気もするが・・・
映画館では、上映前に国歌が流れ、観客は一斉に起立しなければならなかった。でも、国歌が流れているのに、前列の席にいた4人ぐらいの女性が、平然と座っていたこともある。私と同じ列にいた年配の男性が「立ちなさい」と叱責したら、女性の一人がこちらを振り返って一睨みした。そして、彼女たちはそのまま座り続け、男性も黙ってしまった。明らかに水商売風の女性たちだったが・・・。
トルコでは、今でも国旗やアタテュルクの肖像を傷つけた場合、罪に問われるそうだけれど、91年、イズミル学生寮で、数人の学生たちは、ダーツ遊びの際に、アタテュルクの肖像を裏返して、それを標的にしていた。
この寮には一人、日に5度の礼拝を欠かさない敬虔な学生がいて、寮内に礼拝所もなかったから、彼は自分の6人部屋で礼拝していたが、その前に必ずアタテュルクの肖像を裏返しにしていた。(イスラム偶像崇拝を禁じているから)
しかし、ダーツ遊びの学生たちは、敬虔どころか、酒も飲めば断食もしないような連中である。問われれば、「アタテュルク主義者」と答え、5月19日には「アタテュルク万歳!」と叫んでいたかもしれない・・・。

10年ぐらい前、長距離バスで隣席になった35歳ぐらいのトルコ人男性は、「この国の学校では、アタテュルクのことばかり教えているんですよ。でも、これに反対している人たちは宗教の話ばかり・・・。いずれも、いくら勉強したところで、お金は稼げませんね」と文句を言いながら笑っていた。
戦前の日本は、どうだったのだろうか? 90年頃に、関釜フェリーの中で出会った、当時、60歳ぐらいの男性は、北九州の出身と話していたが、戦前、この人の父親は、中国大陸で日本軍などを相手に手広く商売を営んでいて、かなり財産もあったのに、太平洋戦争が始まると、「軍が何てことを・・・アメリカと戦争して勝てるわけがない」と言い、財産の一部を処分して、いち早く日本に戻ったそうである。
その男性は、「戦前の馬鹿な軍人たちの所為で、うちは大分財産を減らしてしまった」なんて言ってたけれど、この話は聞いたそばから矛盾だらけに思えた。この人の父親は、どうやってその財産を築いたのだろう? また、日本はなんでアメリカと戦争する羽目に陥ったのだろう?
しかし、如何に矛盾していようと、この人たちは、したたかに財産の一部と家族の命を守り抜いた。
知識人の中には、イデオロギーや宗教を論じて争い、人々が簡単に洗脳されてしまうような話ばかり語る人もいるけれど、昔から財産や生命に関わる問題になれば、冷静に状況を見極め、したたかに生きて来た庶民も少なくなかったはずだ。
わけても文明の十字路と言われるトルコの歴史は、人々をしたたかに鍛え上げてきたかもしれない。

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